Ⅳ 処女航海 - 1




 中学最後の夏休みを、は高等部への内部進学のためのテスト勉強と、天童が気まぐれに呼びだす課外授業に、大方の時間を費やして過ごした。毎日の勉強も、天童から教わるあらゆることの予習復習もそれなりにあって、にとってわずか四十日の休暇などあっという間だった。夏が終わって変わったことといえば、天童覚が学内で少しだけ有名になったということくらい。インターハイで二年生ながら目を見張る活躍を見せたというので、二学期の始業式にほかの何人かのバレー部員と一緒に表彰を受けたのだ。たまたま冴えてたからね、と天童自身はあまり意に介していないようだったけれど、頻繁に練習を見に行っていたには彼のたぐいまれなバレーセンスがよく分かっていた。

 夏休み中、二人が会うときはたいていあの踊り場で落ちあう決まりだった。ひとさまに見せられないような「こと」が終わると、二人は一緒に学校を出て、近くのファーストフード店やファミリーレストランで空腹を満たした。隣駅までいかなくていーの、なんて最初のうち、天童はのことをからかった。あんなに色んなことをして、今さらそんな力が残っているわけない。は天童の、分かりきったことを引きあいにだして自分の反応をうかがう意地悪さを、恨めしく思う。困惑するのはもっぱら自分の仕事で、天童はいつもそんな自分を見てひどく楽しげに笑っていた。それでもは天童のことをうまく嫌いになれなかったから、天童の性根の悪さよりそんな自分の浅ましさが恥ずかしくて、ろくに口ごたえすることもできなかった。



「今度から寮でしよっか」

 夏休みがあと二日で終わる、八月の終わりの土曜日だった。午後七時。天童が部活帰りによく立ち寄るというラーメン屋には仕方なく付き合っていた。この時間であればいつもならラーメン一杯を食べるくらいの食欲はあるのだけれど、その日はあの踊り場でしていたことがことで、とてもラーメンを食べる気にはなれなかった。あの白濁の匂いがまだ鼻の奥に染みついている。自分が、彼にそれを吐きださせたのだ。にとって「される」ことはたくさんあっても、「させる」ことは稀な体験だった。この手に包みこんだ感触も、ちょっと舐めてみる、と言われてそうしてしまった自分の迂闊さも、けっしてかき消すことはできない。半分ほど残してしまったラーメンのどんぶりを天童に押しつけて、は今しがたの天童の言葉を胸の内で反芻する。天童はいつも、「今度」とか「またね」とかそういう言葉でさらりとのことを拘束するけれど、具体的な提案をつけくわえるのはめずらしかった。

「男子寮、ですよね」
「バレないで入る方法教えてあげる。簡単だよー。みんなやってっし」

 の残した醤油ラーメンをすすりながら、天童はなんでもないように彼女を自分好みの悪事へとそそのかす。みんなって、どこの誰。澄ました顔をして教室で大人しく授業を受けているあの子や、優等生面したあの子、猿みたいなクラスメイトの男の子たちに熱を上げているクラスメイトの女の子たちが、ほんとうにそんな大それたルール破りをしているというの。それともひとは誰もがひとには言えない後ろ暗い秘密をひとつくらい持っているものなのだろうか?
 気乗りしない様子で押し黙ってしまったを見て、天童は箸を止めた。特に目的もなくスマートフォンをいじっていたの右手に、不意に彼の手が重ねられる。このひとはよくこういう気の誘い方をするな、とはふと思った。触れてから、触れてもいい、と聞いてくるようなずるさがある。もっとも二人の関係のほんとうの始まりのときに、彼相手に既成事実のように触れてしまったのはのほうだ。こんなひとだともっとちゃんと知っていたら、警戒のひとつくらいしたかもしれないのに。詮無いことを考えて、は観念したように天童を見つめた。

「俺、ちゃんともっと色々したいな。だめ?」

 色々って。本当にしたいことはたったひとつだろうに、しらじらしい。

 を抗いがたく天童のもとへと突き動かしている興味は、実のところまだ性欲とも言いがたいとりとめのないものだった。かといって今さら単なる好奇心だとか知識欲なのだとか言えるほどお行儀の良い欲望でもないことは確かだ。はじまりがはじまりだったし、それから天童がを囲いこむやり方も、にあまり特別な感情を差し挟む必要を与えないものだった。天童は天童で、何を考えているのか分からない。都合のいい女、というくたびれたフレーズが彼女の脳裏をかすめる。わたし、女なのかな。都合がいいとか悪いとかより、まだ十五年しか生きていない彼女にとってはそちらのほうがオオゴトだった。天童覚は自分にとって異性で、天童覚にとって自分もまた異性なのだ。一方通行じゃない。それは、兄との関係にあってはけっして求められないものだった。が天童に応え続けるのは、けっきょくこの感覚のせいなのかもしれない。



 ――果たして、「昼休み」だとか「下校時刻」だとかの時間の制約という箍がはずれてしまった天童は、が想像していた以上に厄介なものだった。

 九月の晩の冷たい満月の夜。おおかみ男に出くわしそうな、気がふれそうなくらい明るい夜。天童と相部屋の水泳部の男が一週間ほど関東遠征に赴いていて留守にしているせいで、ここ数日のの夜はすっかり天童のものになっていた。さすがにこれはふつうじゃない。頭で分かっていても、けっきょく彼女は今日も天童のベッドに横たわってしまっている。友達とご飯を食べて帰るとか、図書館に寄ってから帰るとか、あの手この手で予定を詰めこんでみたものの二日、三日と続くとさすがに言い訳も苦しい。は、かすむ目をうろつかせて枕もとの時計を確認した。間もなく夜の九時を回る。いつもならどんなに遅くとも帰宅していなくてはならない時間だった。

「も、しつこ、い」

 喉の奥で声を噛み殺すのも疲れ果てて、久方ぶりに吐息とともに溢れたのはそんな非難めいた一言だった。どれくらい二人はこうしているのだろう。ひろげた脚のあいだで、天童の指が長いこと緩慢にの性感帯をくすぐり続けている。彼の指に触れられるたびに少しずつ下腹部に言いようのない疼きが溜まって、の細い身体は今や切なさではちきれそうだった。
 の苦しげな声を聞き届けた天童は、少しだけ身を乗りだして、なだめるように彼女の額に口づけを落とした。たっぷりと全身に愛撫をほどこされたせいなのか、前髪ひとつ揺れるだけで背中に大げさな痺れが走ってしまう。そんな優しげな仕草ができるくらいなら、今もなおびしょ濡れのなかに咥えさせたままでいる二本の指をいいかげん引き抜いてほしい、とは願った。ゆっくり内壁を撫でたり、くねらせたり、それでも絶妙にもどかしくって、いっそすべての刺戟を取りあげられたほうが清々しいに違いない。もう、帰りたい。帰らせて。そう念じながら、このまま帰らせてもらえるはずもない。それだってちゃんと分かっていた。

「ねー、俺のさ、ここで挟んでもらってい? あ、ゴムつけるし」

 まっさらな彼女の内ももを、天童の手のひらがやわやわと揉むように撫でていた。何を言われているのかいまいち分からなかったが、どう答えたところで彼はしたいことならしてしまう性分だろうし、とにかくこのままでは切なくていられなかったのでは素早くうんうんと頷いてしまう。そこでようやく二本の指がずるりと引き抜かれてほっとしたのも束の間、膝の裏を抱え上げられたかと思うと、は太もものすきまにそそり立った性器を挟みこまされていた。そのまま天童が己れを彼女の上でしごくように腰を動かすと、さんざんまさぐられた場所が擦れて自然としまりのない声と溜め息が溢れた。先っぽ、手でつつんで。ささやかれたとおりにすると、天童がぴくりと眉根を寄せて、と同じように甘い息を吐きだす。こんな、精巧なまねごとをするくらいなら、いっそ。はこめかみに涙を流して、脚を震えさせる。自分の内側に貯めこんだ切なさをちゃんと掻きだしてくれない天童が、は憎らしくて、いとわしくて、たまらなかった。

「あ、ん、んっ、せんぱ、」
「うあー…これ、やべ……」
「せんぱ、い、っ、てば」
「はいはい、どした」

 下半身を動かし続けたまま、膝がしらの向こうから天童がを見下ろしている。は手のひらで受け止めていた彼の屹立を、手でするときみたいにぎゅっと握りこんだ。おわ、と天童があんまり色気のない声を発して突然のの行動に目をまるくする。これではまるで、こっちからねだっているみたいな格好じゃないか。熱に浮かされた頭では正常に恥じらうことすらままならないのは確かだったけれども、そのままならなさに助けを借りてのほうから彼を乞うのは初めてのことだった。

「いれない、の」

 手のひらで脈打つこの熱のかたまりを。その声は生ぬるく湿っていて、そのうえか細くつぶれていたけれど、それでも彼にその言葉が伝わったことがにはよく分かった。その言葉を発した瞬間、天童が笑みを噛み殺したみたいな口もとをしたのだ。もしかしてこのひとは、この一言が自分から発せられるのを待っていたのではないかと思うほどだった。言質をとったのだ、今。とられたのだ、この瞬間。膝を抱えこんでいた腕をおろして、天童はにっこり笑った。たくましい腕が伸びてきて、の頭をふわりと撫ぜる。兄にされるそれとはまったく違う、いいこ、いいこ、と犬をしつけするみたいなやり方で。

「うん。今日はもう疲れたでしょ。それはまた、今度ね」

 そう言って、天童はの足を持ち上げると、膝と膝を合わせた股のあいだで再び自身をしごきはじめた。
 こんなにたくさんひとに言えないことばかりしているというのに、はまだ、天童とつながりあったことがない。こういう関係になってまだ数ヶ月と言うべきか、もう数ヶ月と言うべきか。そうしたい、と心から思うには二人には足りないものも持ちえないものもたくさんあるような気がしていたのだけれども、今さっきはからずも閃いてしまった欲望はあまりにも正直に、あけすけに、彼とつながりたいと訴えるものだった。そんな自分がふしぎで信じられなくて、信じがたい自分がいるということに興奮して、また得体の知れない水が芯から溢れてきてしまいそうになる。

 天童の絶頂が近いことを手のひらで感じながら、は彼の切迫した表情をぼんやり見上げた。しっとりと濡れた深い赤茶色の髪の毛も、彫りの深い目もとも、尖った耳のかたちも、鍛えあげられた裸体も、こんなに艶めかしいものだということをわたしだけが知っている。そんな、誰に向けているとも分からない、胸を抉るような優越感にひたりながら。









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2016.1