Ⅳ 処女航海 - 2




 夜の十時を回って帰宅したは、その晩、玄関で待ち構えていた父親に思いきり頬を叩かれた。連絡もよこさないで出歩いて一体何時だと思っているんだと、ものすごい剣幕で怒鳴られて言い返せることなどには何もなかった。帰りが遅くなってしまったのも、連絡をすっぽかしたのも、すべて自分の落ち度だ。それでも、たとえどれだけ怒鳴られたとしても自分はけっしてほんとうのことを白状することなんかできない。はそんな自分が自分でけがらわしくて仕方なかった。じんじんと痛む頬を押さえて説教を受けとめるしかできない状況で、仲裁に入ってくれたのは兄の英太だ。英太が、事情など知らずともとにかくを助けるために頭に血がのぼった父を落ち着かせてくれなければ、はしばらくの間まともに外出すら許してもらえなくなっていたかもしれない。

「冷やせば大丈夫だ、そんなに腫れてないから」
「うん、ありがとう」

 蛍光灯ひとつ点いた薄明かりのキッチンで、英太はこぶりの氷嚢を彼女の左頬に添えるようにあてがった。深夜一時の家は静まり返っていて、ひそひそ話していても声と声とがはっきり飛び交う。頬を叩かれてしばらくしてすぐに引いた痛みが、今になってまたぶり返してきたせいではまだ一睡もできていなかった。ひとり、暗い階段を抜けてキッチンで氷嚢を探していると、そこに兄の英太も自分の部屋から降りてきたのだ。部活柄、家でもアイシングをすることの多かった兄はてきぱきと戸棚から目当てのものを取りだし、のために氷嚢を作ってくれた。は、その優しさをいとおしく感じると同時に、自分にそんな心配をしてもらう資格などとうていないのだと思うと、ばつが悪くて胸が張り裂けそうだった。

、この家、居心地わるいか?」

 キッチンテーブルを挟んで向かいの席に座っていた英太が、ぽつりと、にそんなことを問う。まっすぐに門限破りの理由を問われるよりも、もっと深いところでそれはにとって答えにくい問いかけだった。冷たい氷嚢を頬に押さえつけている手が震える。英太の、何を見透かすでもなく、見破るでもなく、ただそこにあるがままを正しくまなざすことのできる大きな眼が、はこわかった。こわくなっていた、知らず知らずのうちに。その恐怖はもしかすると、彼の友人が自分に与えてくるそれとは真逆のものなのかもしれない。

「……そんなこと、ないよ。なんで?」

 不自然にならないように軽く笑って、は英太を見つめ返す。彼女の兄はあまり納得のいかない様子で、ただちょっと視線をはずして短い黒髪をかいた。

「五年も、一緒に住んでなかったろ。俺なんかがとなりの部屋にいて、他人みたいで気味わるいのかなって」

 大ハズレとも、大当たりともとれるような英太の推量に、は困惑する。再び同じ屋根の下に住むようになって一年半、一緒に生活するなかで自分は兄にそんな想いを抱かせてしまっていたのか、と。いつの間にか叩かれた頬よりも、鼓動を速める胸のほうがだんぜん痛んでいるということに、は気づいた。兄を前にするといつも、はこの捉えがたい痛みと戦っているのだ。

「お兄ちゃんは、お兄ちゃんだよ。わたしの、」

 わたしだけの。のなかでは、兄が兄でなければと思う気持ちと、兄が兄であればこそと思う気持ちとが、絶えずせめぎあっていた。どちらにせよ兄へと向かう感情のなかに恋しさを認めてしまうのなら、苦しみから逃れることはきっとできない。堂々巡りなのだ。たとえどんな関係として出会おうとも、彼を慕ってしまうかぎりは。
 英太が、テーブル越しに腕を伸ばして氷嚢を頬に押しつけていたの手のひらを自分の手のひらで包みこむ。びくりと過剰に反応しては氷嚢を落としてしまいそうになった。そのまま彼女の手のひらを一旦のけて、腫れのせいか冷たさのせいか、はたまた今ここで生まれた会話のせいか、赤みのさしたの頬に英太の手の甲が触れる。氷の冷たさに英太の手の温度が溶けていく。それなのに、目が回りそうなくらい、熱い。

「……俺がおかしいのかもな」
「……へ?」
「とにかく、門限は守れよ。遅くなるなら連絡しろ。俺が迎えに行ってやるから」

 すぐさま手のひらは遠ざかり、英太は音を立てないように気をつけて椅子から立ち上がると、おやすみ、と言い残して二階へとのぼっていってしまった。取り残されたは、しばらく氷嚢を頬にあてなおすことも忘れて、呆然としていた。兄の言葉の意味をどうやって汲んだらいいだろう。勘ぐるようなそぶりをまったくしないひとが、どうあれの葛藤をすくいとれてしまったのは、その葛藤が少なからず兄のなかにも渦巻いているからではないか。そうやって点と点をつなげてしまうのはたやすいことだった。――わたし、おかしいから。いつだったか、自分はそんなふうに呟いたことがある。は後ろ暗い記憶を引っぱり出して、考える。一度も思いついたことのないひらめきが、ほんの一瞬掠めた。わたしが、おかしいのではなく、わたしたちが、おかしいのかもしれないのだと。



 次の日の昼休み、は第一体育館の片隅にいた。

 来月の頭に体育祭を控えているこの時期は、毎日昼休みに種目別の強制練習があったのだ。ひろい体育館をなんとなく区切って、そこかしこであらゆる種目の打ち合わせがなされている。の参加する種目は五人六脚だったけれども、一緒に組んでいるひとりが欠席で不在、さらにもうひとりが日直の仕事で早めに切り上げなくてはならないと言うので、昼休みの後半はほとんど隅っこに座りこんで見学しているような状態だった。
 それでも何度か体育館の壁から壁まで、窮屈な足を引きずって往復したせいで、やわな身体はまたたく間に熱を持て余した。内側に熱がこもればまた、昨日叩かれた頬がずきずきと痛みを帯びてくるような気がする。腫れがぶり返しているかもしれない。そう考えたら、さっさと体育館を引きあげてトイレの鏡を覗きこみたかった。

「頬どうかした?」

 背後からいきなり声をかけられて、は座ったまま慌てて振り返る。見上げると、緑のネットで申し訳程度に区切られた向こうに、天童覚が立っていた。体育館をまっぷたつに割るネットを隔てたとなりでは、高校生が何クラスか合同で障害物競走の練習をしているようだった。そこに、天童がいたのだ。は、目立つ髪色をしている彼の存在に気づいていないわけではなかったけれど、特に声をかけられるとも思っていなかった。昨日、あんなことがあって今日。しかも、開口一番いきなり頬のことを問われる。天童はネット越しにのとなりにしゃがみこんだ。制服姿のままだったが彼は少し汗をかいていた。長袖の制服シャツを肘まで捲り、緩く結ばれたネクタイの先を胸ポケットのなかに押しこんでいる。

「……分かります、か?」
「いや、なんか気にしてるから。左頬のあたり」

 どうしてそんな細かいことに気がついてしまうのだろう、と呑気に感嘆してしまいそうになる観察眼だった。気にしているといっても、走り抜けたあとに少し手の甲を当ててみたり、今になって軽く手のひらで腫れていないか確かめていたり、せいぜいそれくらいの仕草しかしていないはずなのに。
 悟られてしまえばなかなかこのひとを誤魔化すのは難しいとはもう分かっていたから、正直に昨晩のことをさらりと話した。門限が九時であること、その門限に間に合わなかったこと、親への連絡を怠ったこと、そして父親に生まれて初めて張り手をくらったこと。ふだんの天童の様子からすればこんな失敗談は意地悪く笑われるだけだと思っていたから、にこりともせずに自分の話に耳を傾ける天童に、はちょっと面食らった。

「ごめん、俺のせいだね、それじゃあ」

 そして、ひととおり話し終えたらこんなまっとうな謝罪をされる。なんだか調子がくるってしまう。はなんとも言えない気持ちで、天童のどことなくまじめな顔から目を逸らした。

「……わたしが悪いんです。何も連絡しなかったから」

 天童を責める気持ちなどにははなから毛頭なかった。すべて自分が悪いのだと心の底から思っていた。だから、めずらしく天童に殊勝な謝罪をされたところで、心苦しさが増すばかりだった。こうなってはっきりと思い知らされたのだ。自分はとてもうしろめたいことをしている、と。行為そのものじゃない。その行為に至るまでの心や身体の使い方。自分が天童に対して、天童が自分に対して、それらをどうやって継ぎ接ぎしてきたのか。考えるだに情けなかった。そしてその情けなさは、すでに確かにうつってしまっているの天童への、天童へしか向かわない愛着のようなものの存在を、言い訳のしようがないくらいに暴くものだった。

「わたしもう、天童先輩と会えません」

 この言葉を。言わなくてはならない日がいつか訪れるのだろうと、昨晩眠れぬベッドのなかで、ぼうっと考えていた。その「いつか」がまさか、翌日の昼休みにさっそくやって来るとは思わなかったけれども。しゃがみこんだ足の、体育館履きの爪先に視線を落とす。わあわあと騒がしい声が体育館を包んでいて、には自分の声がとても小さく感じられた。

「俺より、お兄ちゃんを選ぶ?」

 それなのに天童の澄んだ声は、どんな喧騒にも紛れずにすとんと鼓膜を突いてくる。ふしぎなくらいはっきりと声が矢となって届くのだ。がぱっと顔を上げると、天童は首を傾いで曲げた膝の上に顔を乗せるようにして、彼女のことを見つめていた。その眼に見合った解がない。その眼に耐えうる策がない。彼のそれは、の決心をいきなり揺るがすには充分な視線だった。

「わかった」

 が一言も答えられないままで、天童はぴしゃりとそう言って問いを切りあげた。彼が何を分かったのか、には皆目分からなかった。だけど、彼がそう言うのだからきっと何もかも、自分は分かられてしまった。そんな気がして、引き抜かれたあとも彼の視線が刺のように残った。
 天童の肩越し、舞台袖のほうで笛の音が鳴って、ちょっと全員集合してー、と体育委員の誰かが号令をかけた。天童はちらりと横目で声の先を見遣ると、またすぐにに視線を戻す。緑のやわらかなネットの向こうで、天童が今日初めて、口もとを緩めて笑っていた。

「でもさ、最後に一回やらせてよ」

 声が、声として。意味が、意味として。避けられないほどまっすぐに、を貫くように放たれる。天童ははなからの反応なんて気にしていなかったようで、それだけ言うとゆっくりと膝に手をついて立ち上がり、号令のかかったほうへと踵を返してしまった。自分本位な酷い言葉のようでいて、その実、の反応なんてものを天童が今さら必要としないのは当然だった。疑いようもなく、それはもうすでに彼の手中にあるのだから。昨日、奪われた言葉の証を、天童も、そしても、けっして無かったことにはできなかった。



 それから一週間。と天童は一切の連絡を取り合わず、顔も合わせず、話すこともなく、ただ時を待った。約束をしていたわけではないが、その時の訪れをはなんとなく察していた。体育祭前日の一日。その日の放課後は体育祭の準備があって、下校の刻限がいつもよりも早まっていた。あの夜ぶりの、男子寮。夕方五時のチャイムを聞きながら、はおろしたての冬服のブラウスを脱がされた。外気に晒された剥きだしの肩に指先が滑り落ちる。転がる石のようにどこまでも落ちていって、やがていちばん低いところで、二人は約束もなしにつながりあった。それはが思っていたよりもずっと簡単で、ずっと自然なことだった。



 のスマートフォンが震えている。バイブレーションのかすかな音が天童の耳にはちゃんと届いていた。

 天童は支えていたの脚をいったん降ろして腕をさまよわせると、ベッドの上に脱ぎ捨てられていたのスカートを片手でまさぐり、右ポケットから器用に彼女のスマートフォンを取りだした。電話番号とともに画面に表示されている名前。のことを電話で呼びだしていたのは彼女の兄――瀬見英太だった。まだ彼女の門限は程遠いというのに。過保護なのか、お節介なのか、それとも別の感情なのか。

「お兄ちゃんから鳴ってるよ」

 未知の刺戟に見舞われているにはスマートフォンの振動音などまともに聞こえていなかったから、天童は眼前の白いうなじに舌を這わせながら彼女にそう報告してやった。それでもはなかなか顔を上げられない。ベッドに敷いたバスタオルを噛んで必死に声を押し殺している。天童は彼女の肩をひらくように自分のがわへと引き寄せて、少々むりやりな仕方で上を向かせた。彼女の口からタオルの端がこぼれ落ちて、同時に、呻き声のこもったような息さえ洩れる。天童は、が思っていた以上に自分を感じているのですっかり参っていた。参ったというのはつまり困ったとか、負けたとか、そういうことではなく、よすぎる、という意味で。

「出なくていいの」
「ん……、っ、あっ、だめ、出られるわけ、な」
「お兄ちゃんより俺を選ぶんだ?」

 うっすらと開いたの双眸の前に、天童がちらちらとスマートフォンをかざすと、焦ったようにが久しぶりにまともな声を上げた。お兄ちゃん、というわざとらしい単語にしっとりと濡れた瞳の奥が揺れる。天童は振動を続けるスマートフォンをぽいと投げ捨てると、ついでだから上向いた彼女の首の、喉仏のあたりに口づけを落としてやった。じゅ、と吸いあげるようにくちびるを動かすと、の全身がわなないて乱れる。そのすきに彼は再び彼女の片脚を持ち上げた。横向きに寝そべっているの背中に寄り添いながら、背後から彼女を優しく突き上げる。天童の動きに合わせるようにはまた悩ましげに顔を伏せて、タオルに縋りつきながら必死に声を押しこめた。

「ん、んっ、う」
「ねー、最後って言ったけどさ」

 はもうずっと、話し掛けられてもなかなか応じることができないでいる。一方的に迫りくる刺戟のほうが、言葉よりも先にどうにか処理しないといけない喫緊の情報だったのだ。圧迫感のなかにある捉えがたい快感が、それがすでに自分のなかに芽吹いているということが、二人の肌の相性のよさを明かしているようで、居ても立ってもいられない恍惚と高揚感がを襲っていた。最後。最後って、なんだっけ。天童がふいにの耳をかじったせいで、そんなことすら、彼女はまともに思い出せなかった。

ちゃんが俺を選ぶなら、何度だってこうしてあげるよ」

 悪くないでしょ、と冷やかに天童の声がする。はまた考えもなしにこくりと頷いて、彼のことを喜ばせてしまった。考えなんてひとつもおっつかないけれど、この感覚はけっして悪いだけのものじゃない。それはもはや、にとって認めるしかない事実だった。









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2016.1
過去編了(ⅤからⅠの続き)