Ⅴ 硝子の少女 - 1




 いつの間にか外は四月の雨だった。大粒の春雨はかよわい桜の花びらを降り残してなどくれない。堕ちる、堕ちる、墜ちていく。種も撒かずに枯れていく。地面に擦れた花弁たちはつるりと磨かれ抜いたローファーの底にこびりついて、せいぜい季節のうつろいを告げ知らせるものになるだけだろう。

 まっとうに、順番通りに、春はやって来て、は晴れて白鳥沢学園高等部の一年生になった。中等部から進学するための内部試験は彼女にとって結果的にはあってないようなもので、それなりに勉強はしたけれどそれは「努力」とは程遠いものだった。あるときは片手間に、あるときは上の空で。教室で学ぶことはどれも流れ作業の産物で、まるではりあいというものがない。その点、天童覚という男は自分にとってとんでもない教師であり、多くを与える学び舎である、とは思う。予定調和のような基本問題もないし、決められた単元も範囲ない。せっかく予習復習したこともすべてふいにして、いきなり飛び級を要求されることもあった。教えられることにはなんとか着いてゆけるけれど、みずから応用するとなると途端に難しい。なんとか彼のことを出し抜いてみたいのに自分はいつも彼にいいようにまるめこまれてしまう。ついこの間だって、自分は入学式の晴れの日にいきなり男子寮に引きずりこまれ、指の跡がつくほど首を絞められて泣かされたばかりなのだ。あの、いかれやろう。

 初めて天童とつながりあった日、それは最初で最後の行為であるはずだった。あれから半年が過ぎて、けっきょく二人は今まで数え切れないほどつながりあっているのだから呆れてしまう。門限を破るようなまねはしなくても、と天童は二人きりの行為のすきまをお互いそれなりに用意できた。というよりも、彼らは日常のすきまのほとんどすべてを互いをむさぼることに費やした。そんなに、いいのか。そんなに、よかったのだ。その点では、はいつの間にか天童ときっかり対等になっていた。



 玄関で鍵の開く音がして、はリモコンの一時停止ボタンを押す。居間で見ていたDVDを止めると、玄関ドアが開いているからか、雨のざあざあ降りの音がひどく大きく聞こえてきた。は家にひとりきりで、何をするでもなく土曜日の午後を過ごしていたところだ。父は休日出勤、母は友人と観劇、兄は今日、朝早くから近場の大学で大学生チームとの合同練習に出ていた。雨の日の午後四時はすでに部屋の電気をつけていないと薄暗い。そのことに、テレビから目を離してみてはようやく気がついた。

ーいるかー?」

 玄関先から聞こえてきたのは父でもなく、母でもなく、兄の声だった。は猫のように俊敏にソファの上から降りると、廊下へとつながっている居間のドアへと素早く駆け寄った。

「お兄ちゃん、おかえ……」

 おかえり、とはそう言おうとしたはずだった。もちろん、自分の兄に向かって。それが言葉を詰まらせてしまったのは、彼女の目に飛びこんできたのが自分の兄の姿だけではなかったからだった。そこには兄のチームメイトたちが、兄も含めて制服や髪、肩に掛けたエナメルバッグをぐっしょり濡らして立っていた。兄の奥に佇む、特徴的な赤みがかった茶色い髪。は悲鳴すらあげそうになって、思わず、一歩あとずさりした。

「悪い。ちょっと洗面所からタオル持ってきてくれないか。あ、こいつらのぶんも……えーと、四人分」

 英太は右手の親指を折り曲げて、にそんな頼みごとをした。大学から帰る途中ですげー本降りになっちゃって、とりあえずうちがいちばん近かったから……そんな説明を英太は洗面所でタオルを用意しているにも聞こえるような大きな声で話した。自宅にひとりきりというもっとも油断した時間を過ごしていたは、正直それどころではない。言われるがままタオルをみつくろって英太に渡すときも、ろくに目を合わすことすらできなかった。英太に向けた視線をむりやり横どりされるのがこわかったからだ。その斜め後ろにいる、赤茶色の髪をした男に。天童覚に。

「おじゃましまーす」

 一通り水滴を拭きとってから、兄のチームメイトたちは口々にそう言って靴を脱いだ。居間は汚れると親がうるさいからと、英太は二階の自室へ彼らを導いた。狭い廊下ですれ違うとき、無防備なの手にわざとらしく細長い指が触れる。そこでようやくは、この厄介な男と視線を交わした。
 英太がチームメイトを家に呼ぶことはたまにあったけれども、の知る限り天童がこの家を訪れたのは初めてのことだった。天童は寮生だから、外出にかんしてはあまり自由に振る舞えないところがある。もっとも、寮へと客を招くほうにかんしては、逆にずいぶんと勝手をやっているのだが。



 はキッチンで三人の客人と兄のために温かい紅茶を淹れることにした。硝子のティーポットに茶葉をいれて、ケトルから熱湯を注ぎいれる。沸騰した水がたっぷりと硝子を満たして、その内側に沈んでいた茶葉をひっくり返し、踊らせ、そしてみるみるうちに透明だった熱湯が鮮やかな琥珀色に染まっていく。しばらく無心で紅茶のできあがるさまを見つめていたせいで、は背後からのひとの気配にすぐ反応できなかった。振り返ろうと思ったときにはもう、不埒な手のひらが彼女の臀部を舐めるように撫でていた。

「手伝おうかー、ちゃん」

 洗面所でも借りた帰りか、天童は二階へ上がる階段を無視してキッチンへ寄り道をしてきた。太ももの付け根をくすぐるような彼の手の動きに、はすっかり呆れ果ててしまう。

「……セクハラおやじ」
「まあまあまあ」

 何が、まあまあまあ、だ。それじゃほんとうにおやじっぽい。ははぁ、と溜め息をつきながらお茶うけのクッキーを菓子鉢のなかに並べいれた。

「ねー、いっつもこうゆう服着てるの? 家で。下はいてんのこれ」
「あっ、裾やださわんないで」
「つれないなー」

 ルームウェアの裾をつまみ上げようとする指をはらいのけて、尻を引っこめるようにが自分へと向き直ると、天童はそんな彼女の反応を見て楽しげにからからと笑った。膝丈のニットワンピースの裾を、は赤面して整える。ほんと、ばかじゃない。はいてないよ。

「そうだ、明日さ。大丈夫になったから。来てよ」

 そしてきわめつけはこれだ。天童は調理台のふちに手を置いて少しだけ身を屈めると、なんでもないふうにを誘った。明日。ルームメイト次第で部屋が空くかも、と天童が言って保留にしていた日曜日。天童が空けといて、と言えば、はだいたいその日その時間を空けて待った。天童のほうがよりもはるかに忙しいのだからそれが効率的なのは確かだけれど、そのままご破算になることも多いし、いまいち振り回されているようで納得いかない。でも、空いてる。明日。ちくしょう。こくんとが頷きかけたとき、キッチンの入り口のすだれが音を立てた。天童と同時に顔を上げると、そこに居たのは英太だった。

、飲みものひとりで持てるか?」

 兄にそう声をかけられても、はすっかり動転してまともに返すことができなかった。直前までしていたくだらない会話が会話だったから、全身を冷たい血が流れるようだった。そんなの動揺をすかさずフォローしたのは天童だった。彼はついさっきまでの態度をすっかりひそめて、きわめて友好的なそぶりで英太と向かい合った。

「俺、手伝おうと思って。ちゃん大変そうだから」
「え、いいよいいよ、俺がやるから。悪いな」

 英太がキッチンに入ってくると天童はさっとすみやかにのとなりを空けて、じゃあお言葉に甘えて、と残してすぐに二階へとのぼっていってしまった。しばし呆然として、やがてふっと思い出す。紅茶のこと。ポットを持ちあげようとしたら、ひょいと兄にティーポットの取っ手を奪われた。英太は淡々と盆の上にポットとティーカップを乗せながら、声をひそめての耳もとでこう言った。

「なんか嫌なことされてない? あいつに」

 かっと頬に熱が集中する。急いで、勢いよく、は首を横に振った。ない。されてない。けっきょく自分は彼と出会ってからこのかた、ずっと。

「なんにもないよ」
「そ? ならいいけど。紅茶ありがとな。あと全部、兄ちゃんがやるから」

 英太の手のひらがの頭を撫でる。それから、紅茶と茶菓子の乗った盆を慎重に持ち上げて、英太はそろそろとした足どりでキッチンを出ていった。動転したままなかなか心臓がもとの脈拍を取り戻してくれない。兄は何か聞いたのか、見たのか、それとも何かを感じとったのか。は、考えるのをやめにした。おそろしい予感に耐えきれなかったからだ。



 その日の晩、天童から一通のメッセージがのスマートフォンに入った。――明日さ、行きにゴム買ってきてくれない? 切れてんの忘れてた――そんな用件のメッセージを見て、はまたいちだんと彼のことを恨めしく思った。何それ。どうせやることばっかり考えているくせに、なんで忘れるわけ。既読スルーしてやる。メッセージを開けるだけ開けて、はスマートフォンをぽいとベッドに投げ捨てると、さっさと風呂に向かった。

 ちょっといいか、と英太が風呂上がりのを呼び止めたのは、彼女が自室のドアノブに手をかけたちょうどそのときだった。となりの部屋の英太がみはからったように廊下に顔を出して、のことを手招いたのだ。ふだん滅多に足を踏み入れない兄の半径一メートル。は兄の勉強机の椅子に座らされ、緊張をまぎらわすために何度もドライヤーしたての髪を梳いた。英太のほうはというと、ベッドの端に座ってと向かい合っている。こうしていると、二人の目線はちょうど同じくらいの高さだった。

。お前、天童と付き合ってるよな」

 断定しているかのような物言いに息を呑んだ。今日の光景のことなら弁解できるのではないかとすぐさま動きだした頭の回転を、英太は阻む。彼のズボンのポケットから出てきたもの。それは、自室のベッドの上に投げだしたはずの、のスマートフォンだったのだ。

「ごめん、見た。……今日キッチンでさ、やっぱ様子が気になって。悪い」

 ごめん、だの、悪い、だの口では言っても英太の目ははっきりと強く光っていて、にはとても直視できない正しさを孕んでいるように見えた。でも、じゃあ、わたしは。わたしは、間違っているのかな。英太はから視線をはずすと大きな溜め息をついた。それはを無言で咎め立てるような、優しい兄には似つかわしくない険しいそぶりだった。

「お前さ、自分の体もっと大事にしろよ」

 しばらく忘れていたうしろめたさ、天童に触れられるうしろめたさや、それを拒もうとしない自分のうしろめたさが、またよみがえってくるような気がした。そして、よみがえってくるとともに、そのうしろめたさに知らないうちにたくさんのしがらみが絡みついていたことに、彼女は否応なく気づかされた。ようやく少しずつ、自分の為していることを自分自身で引き受けられるようになってきたのに。兄のその一言は、彼の優しさのはずだった。それでもにはその一言がひとつの軽蔑のようにも響いていた。

「……どういうこと?」
「どういうことって……」
「どうしてお兄ちゃんにそんなこと言われなきゃいけないの」
「兄貴だからだろ」

 英太が切なく声を荒げて、の口ごたえを塞いだ。まともに兄妹げんかすらしたことのなかった二人だから、はこんな燃えるような目をした兄と対峙するのはほとんど初めてだった。兄貴だから。簡潔な理由のようであって、理由でもなんでもないような、二人のつながりのこと。初めて天童に口づけをされてから、はたわむれのように、憧れを押しつけるように兄につきまとうのをやめた。それなら天童は、兄の代わりだろうか。彼が居なければ、自分は今も兄に恋をしていただろうか。……恋?

「妹が心配なんだ。それがふつうだろ……」

 おかしいのかな、とかつて自分にそう言ってくれた兄が、まったく同じその口で、ふつうだろ、と息を巻く。そのとき、は自分のことや天童のことを「おかしい」のだと、どこか得意げにそううそぶいた一年前の自分のことが、憎らしくて恥ずかしくてたまらなくなった。それと同時に、兄のその正しさが自分や天童や二人のことをまとめて「おかしい」のだと言っているような気がして、おかしいのだと言われることを初めて絶望的に苦しく感じた。もうそれ以上、兄の言葉を聞いていられないほどに。

「聞きたくない」
、」
「離して!」

 椅子から立ち上がると、英太がまだ話は終わってないとでも言うようにきつく腕をつかんできた。は兄の手のひらを強引に振り払うと、逃げるように自分の部屋へと閉じこもった。扉を背にして、気が抜けたようにずるずるとはへたり込む。いつの間にか頬には涙の河ができていた。









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2016.1