3 - かわいいあの子

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 急がば回れとはよく言ったものだと思う。
 日直の仕事に思いのほか手間どり、部室棟までの道のりを手っ取り早くショートカットしようとして、逆にとんでもない寄り道をする羽目になった。
 大事な春高予選前の練習に遅刻してしまい、コートの外で監督の大目玉を喰らいながら、天童は苦々しくつい十数分前のことを思い起こす。というような回想は、少しの見栄が混じっているだろう。もしもあれが正真正銘、苦々しいだけの足止めだったのならば、最後に乞われたあの願いへの返事はきっぱりとした断りの言葉であったはずだ。それができなかった自分なのだ。いや、あれを拒絶できる男がどれだけいるというのだろう。そんなふうに自分だけの領分を削りとって、仕方がないことだと思おうとしている。危険な焦燥が体内に渦巻いていることに気がついて、逃げるようにひとつの首の頷きを残してきてしまったが、その対処は、明るく馴れ馴れしい挨拶を振りまかれて会釈で切り抜けることと、大して変わりはなかった。

「天童くん、天童くんっ」

 ひらひらと不規則に舞う蝶のように、光の鱗粉を振りまき、部室棟二階の軒先で小さな手のひらが揺れている。こういうささいな仕草にいちいちつまらない迷いが湧く、居た堪れなさ。天童はブレザーのポケットにそれぞれ突っこんでいた手を彼女に釣られて取りだしてみたが、できるのはそれまでだった。彼の応答を待たず、が階段をカンカン言わせて降りてきたのだ。はこのあいだ、天童がその身をかつぎあげたときと似たような格好をしていた。ぶかぶかの白のトレーナーに、ボックスプリーツのミニスカート。もう足首を挫いた痛みはないようで、靴音は天井知らずに浮かれていて、足どりも爪の先まで軽やかだった。

「あのね、家庭科の授業でクッキー焼いてみたの。ちょっと焦げちゃったけど、美味しくできたよ。春高のお祝いに、と思って」

 その声にも、手にも、透明なラッピングにも、シロップに漬けこんだようなたっぷりの喜びが、はなから滲んでいるようだった。円をつくって、平和に閉じている。ラッピングのなかには天童の好物と知ってか知らずか、チョコチップをたっぷり混ぜこんだクッキーがぎゅうぎゅうに詰めこまれていた。焼きたてのようで、受けとってみると天童の手のひらにも消え入りそうな熱が伝わってきた。

「ありがと。いただきます」

 一心にきらめく眼の圧力が、天童らしからぬ真っ当な言葉を簡潔に吐きださせた。それだけ言って、ことがたやすく終われば迷わずに済むというのに。無論そうはいかない。がまた、何を訴えるでもなく指先で彼の制服をつまんだのだ。手癖なのか、どうやらの指は本能的なさみしさを秘めているようで、彼女はよく人目をはばからずそういう指の遣い方をするのだった。部活前で、こんな往来の激しい悪目立ちする場所での立ち話であっても、お構いなしだ。

「そうだ、わたしね、試合中いっぱい天童くんの名前叫んだよ。聞こえてた?」
「……いやごめん、全然」
「えっ、ほんと? がんばったのにな……」

 がくちびるを少し尖らせ、期待はずれだといったような顔をした。知ったことではないのだが、こんなふうに甘えたそぶりをされて、こんなふうにしごく残念そうな態度をとられると、悪いことのひとつでもしてしまったような気にさせられる。
 決勝戦の応援はいつも華やかなものだが、天童にとって声援とは常にひとつのかたまりとして賞賛を与えてくれるものでしかなかった。試合中、自分が成したファインプレーに対して、拍手だとか声だとかが沸き立つのはもちろん気持ちがいい。けれども別に、それは誰のものであっても等価だ。拍手はもちろん、声の束からひとつの、誰かの声を導きだそうなどという発想は、天童にはなかった。それがたとえ「好き」だと告げられた相手のものであっても。

「わたし、もっと応援がんばるね。天童くんも部活がんばって。あっ、今日待ってるね、終わったら」

 それでもは自分に言い聞かせるようにすぐさま笑顔を取り戻し、さりげなく天童の腕に抱きつくと、行きと同じ陽気な足音を響かせて部室棟を駆けあがっていった。階段の途中で振り返り、また光の粉を散らせながら。こういう日々が毎日続くということを、恋人同士というのなら、世のカップルたちはみな尊敬に値する。妙な感嘆を丹田にとどまらせて、天童はクッキーのつつみをブレザーのポケットに押しこんだ。



「なんだよあれ、いつからだ? つーかいつの間にだ」

 一階の軒下を小走りに渡って男子バレーボール部の部室に入ると、ロッカーを開けるか開けないかの早々に、天童はその興味の網に引っ掛かってしまった。立ち話をしているあいだに瀬見が追い越していったのは気づいていたが、どうやら彼は部室の小窓から一部始終をのぞいていたらしい。瀬見だけではない。こういう話は光の速さでめぐっていくものだ。溜め息もでない。天童はポケットにつつみを入れたままブレザーをハンガーにかけ、ネクタイを乱暴にほどいた。

「体育祭のあとぐらい」
「体育祭? えらい最近だな」
「リレーのとき転んじゃってた子だろー、天童の前に走った」
「あー、えっ!? あれだったんか」

 後ろのベンチでテーピングを指に巻いていた山形の横やりに、「なんかひとり足遅いやつがいるなと思ってたんだよなあ」と瀬見が悪びれもせずに結構なボリュームで言い放つ。瀬見も、も、中等部から白鳥沢に通っている内進組の生徒だ。五年目の学校生活ともなれば一度ぐらい同じクラスになったこともあるのかもしれないし、大した交流や付き合いなどなくとも、どこか身内のふぜいがある。こと、天童のような高校から入って来た生徒にとっては、その親しみ含みの空気は目に見えるほど顕著なものだった。

「まー、あれはヒーローしてたもんなー、天童。で、告った? 告られた? それともまだか」
「られた」
「おーおー。なんて」
「……実力行使というか」
「は? なんだそれ。実力?」
「英太くん、野暮なのは私服だけにして」
「はぁ~!?」
「瀬見うるせー! 着替え終わってんなら出てけ!」

 好奇心に吊るし上げられかかっていた天童を見かねてか、ただただ瀬見の澄んだ声が筒抜けだったのか、三年生の怒号が飛んで二人の会話はぷちんと途切れた。体育会系の部にあってこれ以上の助け舟はないだろう。けらけら笑う山形に背中を叩かれながら、瀬見は部室をあとにした。しかし、ほっとできたのはほんの束の間のことだ。裸のわき腹に通り風がしみて、天童が振り返ると、一年生の川西が真後ろに立っていた。

「よかったですね、天童さん」

 外の冷気をしょってきた川西のため、少し左に立ち位置をずれてやる。川西のロッカーは天童の右斜め下なのだった。ありがとーございます、と独特の淡泊な声が天童の耳に抜けていく。コートの上ではまったく違う立ち回りをする二人だったが、そのせいかゲーム形式の練習をしているとよく一緒のチームに放りこまれ、近ごろは会話する機会も増えていた。もちろんバレーの話がほとんどだったが。

「よかった?」
「あれ、言ってませんでしたっけ。さんがいちばんタイプって。ほら、インハイのときの集合写真見て」

 たてつけの悪い古いロッカーは開閉するだけで不快な音がさわる。いつもどこ吹く風で、他人に興味がないといった顔をしているくせに、こういうときだけわざとらしく耳ざとい。返す言葉に詰まってしまったのは、天童本人が、その発言をけっして忘れていなかったからだ。

 男が何人か集まれば、自然とそういう話が出てくる。手もとに写真があれば、誰がいいだの、かわいいだの、無責任な格付けをしたがるものなのだ。あのときは夏休みの練習の昼休憩で、たわいもない会話の流れで、「言った」というよりは「言わされた」というほうが正しいかもしれない。どうせ深く関わることもないと思い、だらしのない本音が出た。そうしたらまさか、休みが明けてからリレーの選手が入れ替わり、本番で盛大に転んだあげく、いきなり「好きになった」などと告白してくる。週刊少年誌のラブコメは好物だったが、自分がこうむるには、急展開が過ぎるというものだ。

 「なんなんだよあれ」。そんなの、こっちが聞きたい。自分がいちばん思っている。



 大会明けの練習は疲労を考慮してあっという間に切り上げになり、いつもと比べれば汗もかいていなかったが、天童は丁寧にシャワーを浴びた。寮に帰るには西門が近いが、繁華街に向かうならば北門が便利だ。また、部活前にそうされたように盛大に手を振られるのだろうかと思いながら、北門の外灯の下で待っていたに近づくと、彼女の態度はうってかわってとてもしおらしいものだった。天童に気づき、はっと前髪をさわり、小さく指先だけ動かすようにしては天童を迎えた。 彼女の学生かばんの持ち手には、あのときの水色のリボンが結ばれている。まるで運命の赤い糸のように、後生大事に。

「……なんか緊張してない? だいじょぶ?」

 思わずそう聞かずにはいられなかった。が大きな目をぱちくりとまたたく。幻灯機のようにゆっくり、ぎこちなく。午後六時に北門前、それが二人の約束だった。大した時間はとれないが、それでも一応ここから始まるのは、「初デート」と呼ぶべきものなのだろう。

「天童くんは緊張しない?」
「まあ、それなりに」
「それなりかあ」

 二人、門をくぐって夜道を歩きだしながら、の声に天童は耳を傾けた。ブレザーのポケットに何気なく手をつっこむと、がさっと何かの感触が指にあたる。貰ったまま、あれからずっと入れっぱなしだ、忘れていた。

「わたし、男の子と二人でどっか行くの初めてで」
「へえ」
「付き合うとかも、いっぱい考えてみたけど、実際何したらいいかとか……」
「告白するまでは調子よかったじゃん」
「あれはっ、その……必死、で」
「じゃあ今は必死じゃないんだ」
「そーじゃなくって!」

 ほんの少しあしらってみただけで、は慌てて顔を上げる。十字路まで下っていく坂道は驚くほどに真っ暗で、外灯がまるで足りていなかった。それでも目が合うとどうしても、互いに大して見知らぬ男女の微妙な距離が芽生え、お互いの緊張が触れあった。二人を消耗させる沈黙。

「天童くんは、どうしてわたしと、付き合ってくれたの?」

 口にして、天童が何かしらの反応を見せるより先に、はすぐさま言葉をかき消すようにぱたぱたと片手を動かした。

「あっ、ごめん、お試しだったよね」

 自分で言って、自分で納得したり、自分で傷ついたりする。この子は、忙しい。遠巻きにそう思ったが、考えてみれば二人にはどこか似たところがあるのかもしれない。俯きかけたを、首をかしいでつかまえる。の目。鼻。口。その並び。「言わされた」好みだったが、好みなのは、ほんとうだった。

さんがかわいいから」
「えっ」
「とかじゃ、だめ?」

 だめ、と訊けば、は弾かれたように勢いよく首を横に振った。両手のひらを頬にあてがって。ここが陽射しの真下なら、きっと耳たぶまで赤くしているところだろう。そういうあからさまな仕草だった。

「うれしい」

 涙さえ流すのではないかという、「感激」の二文字が顔中に溢れた表情でははにかんだ。大したことを言ったわけでもないのに、やめてくれと思う。きっとは、かわいいなんて、今までさんざん言われてきた。彼女はそれを無意識に享受している。天童にはそういうことが分かってしまう。十七年しか生きていない人間。しょせん誰も、学校という箱庭を宇宙にしている人間ばかり。だから分かる。その宇宙で、彼女がどういう扱いを受けて生きてきたのか。何かを解読するのに必要な情報などすべて目に見えるところに現れているのだから。それが短慮なことだと気づくにはまだ、天童は他者というものの不気味な質感を信じきれていない。

「あのさ、さん」
「うん」
「付き合うってやつだけど」

 がらあきのの左手を、天童の右手がすくいあげる。体育祭のときとは立場が逆転したその不意打ちに、今までさんざん押されてきた形勢を天童は少しだけ持ち直せたような心地がした。体温はけっして、落ち着くものではない。むしろ真逆だ。深く呼吸できない行為だ。それでもこの少しの痺れが、あてどもない二人のかたちを区切って、整えるにはちょうどよかった。そんな気がしていた。

「とりあえず、こういうことじゃない?」

 結ぶ。二人がなるべく、このかたちになじむように。なめらかに入ってゆけるように。手に体温を閉じこめると、急に彼女の歩幅に遠慮していることがいやになって、窮屈な気持ちが募り、天童は控えめだった一歩一歩をひろげて、さりげなく足の運びを速めた。のローファーが砂利道を蹴りすすむ。待って、と言わずに着いてくる。歩幅は違っても離れていかない。二人は今、手をつないでいるのだ。

「天童くん」
「んー」
「天童くんも、かわいい」
「眼科行こうか?」
「かわいい、……」
「うれしくない」
「うれしい、わたし」
「あっそ」

 斜め後ろ、腕の先で、くすくす笑いが起きている。天童は少しずるい思いで胸を撫で下ろしている。十字路はもうすぐで、そこを渡ればファミレスでも、ファーストフード店でも、二人が腰を降ろせる店はいくらだってあるだろう。
 はきっと気づいてないだろうが、自分で納得して自分で傷つくような、そのとりとめもない言葉でさえも、完璧にたったひとりで平和に閉じるようなざれごとはひとつもない。だから言葉はこわいのだ。好きなもの。嫌いなもの。心のぜんぶ。今はなるべくそういうものから離れていたい。皮膚と皮膚をくっつければ、そんな無責任な願望が胸にまわっていく。
 天童はがさつくブレザーの右ポケットをつとめて気にしないよう、手に誘うようなちからをこめて、を静かに引き寄せた。









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2016.10