4 - 男の子の部屋

- - - - -




 十二月の午後三時ははやくも夕暮れの気配を帯びている。透き通った橙に陽射しが色づけば、瞼を刺すのはもう明るさだけではない。
 三両編成の列車の一番後ろの車両に乗りこみ、は、買い物帰りの老婦がひとり居眠りしているだけのがらんとした車内を一瞥した。発車のベルを聞きながら、通路を抜け、二人掛けの座席へ空気が抜けたようにトスンと腰をおろす。期末テストはまだあと一日残ってる。帰ったら世界史の勉強しなくちゃ。あの先生がつくる問題、苦手だな。考えているとは言いがたい単調な上の空で、はとりとめもなく明日のことを思うが、ほんとうは今このときすらおぼつかない。
 数分前のできごとがカットガラスの宝石のように、複雑にきらきらと光を移ろわせている。世界から切り取られた小さな部屋。はそこから出られない。

 格好のつかない告白をして、あいまいな返事を受けて、あれから、二人で並んで帰り道をゆくことにもだいぶ慣れた。帰り道といっても、学生寮で生活をしている天童と、電車通学をしているとでは、長く一緒にいられるわけではない。ただ、天童はと下校をともにするときはいつも、少しの寄り道にはなるが彼女のことを駅の改札まで見送ってくれるのだ。大事な大会を控えた冬の入り口に、二人でできることはそう多くない。物足りないなと思うこともあったが、それでもは幸せだった。何せ「このひとだ」と思って一週間足らずで先走る想いをこぼしてしまったのだから、新しいことひとつ知れるだけでも、知ってもらうだけでも、後追いの毎日が楽しくて仕方なかったのだ。

「明日のことなんだけど」

 今日も、十五分にも満たない帰り道を恨めしく思いながら、さよならの改札に辿りついてしまう。平日の昼間の駅舎はとても静かだった。二時間ばかり食堂で試験勉強をしていたせいか、白鳥沢の生徒すら見あたらない。はここ数日で、天童が自分よりもずっとまじめに授業を聞いていて、まじめに定期テストに臨んでいる、至極まじめな生徒だということを知った。点とらないとコーチがうるさいから、と本人は言うが、彼自身の自発的な努力も大きいように見える。要領よく、適度に。ずっとそんなふうに勉強していたにとって、天童の姿は新鮮で、そしてとても魅力的だった。

 明日のこと、と別れ際に切りだされたとき、の心は嬉しくて弾んだ。ちょうど同じこと言おうとしていた、と思った。テスト最終日を心待ちにしていたのは、今回ばかりは一夜漬けの生活から解放されるせいではない。明日の約束をはずっと楽しみにしていた。

「うん、あっ、どうするか決めないとね」
「ごめん、練習入ったから行けなくなった」

 顔色ひとつ変えずに天童がそう告げたので、の心臓にさみしさが絡まるまでにしばらく時間がかかった。二人でどこかへ行こう、と約束していても、天童はこうして二回に一回はあとから断りを入れてくる。全国大会の本番はどんどんと迫っているのだ。下を向いて、残念な態度をしてはいけない。は首を横に振った。頬に不自然な力をこめたせいで、かばんの持ち手を握っていた指も、セーターの袖口の奥で震えた。

「……ううん、天童くんがあやまることじゃないよ。春高近いんだもん。がんばってね、応援してる」

 同じようなことを以前にも言ったような気がする。もうずっと、何度も言ったような気がする。いいかげん芸がないのは彼女にも分かっていたが、何もこれは良い子ちゃんをきどった決まり文句ではない。のぶれない本心なのだ。もちろん、待ち望んでいた約束が破られてしまえば、その言葉に笑顔を添えるのはとても、とても、難しいことではあったけれども。
 の「いつもの」それを聞いて、天童はなぜか、眉間にぴりっと皺を寄せた。改札の奥で、電車のまもなくの到着を告げるアナウンスが流れだす。それはが乗る方向のものだった。

「……そんな顔してさ」

 頭上を通り過ぎていくアナウンスの声にまぎれてしまい、天童の溜め息まじりの呟きがにはうまく聞き取れなかった。コートのポケットのなかに隠れていた大きな手がぬっと引きだされ、の首もとをすり抜けていく。何もできず、ただ驚いて、は肩をすくめた。天童が一歩近づいてくる。えりあしのあたりがこそばゆい。彼の両手が、首の後ろで結んでいたのマフラーをほどいてしまったのだ。

「天童くん?」

 返事はかえってこない。指先を軽く曲げ、指のあいだにマフラーの両端のフリンジをくしゃりと握りこみ、天童はまるでの顔を囲うように無造作にマフラーの裾をひろげた。
 視界を狭められた刹那、身を屈めた天童のローファーの先が、のローファーの先とぶつかりあう。
 痛みも温もりもない、マッチの火も灯せない程度の、摩擦のない触れあいだった。触れた、と思ったときにはもう、離れているような。それでも今このときばかりは、世界中の誰にも知られたくないと思った。このほどけたマフラーの内側で、二人がしたことを。

「……もう少しわがまま言ったら。溜めこんでるとハゲるよ」

 マフラーの端っこをはらりと手放してから、天童はの前髪を一度だけ撫でた。じゃあね、と言って何事もなかったかのようにひょうひょうと、大きな背中が離れていく。かばんを落とさなかっただけ、電車を乗り過ごさなかっただけ、は自分を褒めてあげたいぐらいだと思った。こんなの、きいてない。くしゃくしゃのマフラーの端っこで口もとを覆いながら、は天童の背中を見つめていた。睫毛のきわに涙が溜まる。悲しくないのに、ばかみたいに。

 翌日の世界史のテストは答案が返ってくるまでもなくさんざんの出来だった。要領よく適度にテストをかわしてきたにとって、前日の夜を支配されるのは致命的なことだ。頭のなかが、いっぱいで、年号なんてひとつも入ってこない。むしろ追いださないと間に合わないぐらい、その日から、には天童がすべてになった。



 期末テストが終わったあとも十日間ほど登校日が残っていたが、にはぞくぞく返されるテストも、新しい単元も、冬期講習の話題も、迫る年末年始のイベントごとの計画さえ、心底どうでもよかった。次に天童くんとちゃんと二人になれるのはいつだろう。そんなことばかりを考えて、早くそうなりたいような、なりたくないような、もどかしい気持ちを右往左往させていた。

「これってもう、付き合ってるみたいなものだよね? ねっ、」

 放課後の空き教室でちまちまと針を動かしながら、は向かいの椅子に座っている友人に投げかける。彼女もまた、と同じように針仕事をしていた。二人で縫っているのは横断幕だ。近ごろ、チアリーディング部は応援団と一緒になってはっぴやハチマキなどの準備に忙しい。にわかに活気づいたのは十一月の半ばごろからだ。「甲子園に行けるかもしれない」と、応援団の男の子が興奮気味に教えてくれた。秋の全国大会で東北地区の代表校が優勝したのだという。には仕組みがよく分からないが、それは春の甲子園の選抜枠が、東北地区でひとつ増えたことを意味するらしかった。

 憧れの場所が近づいている。そう聞かされても、にはあまり実感が湧かなかった。実感の湧かない憧れよりも、実感に満たされている目の前の恋が、今のには関心事なのだ。何度も同じ話をして、何度呆れられても、それでも彼女は懲りない。ぷちっと糸を切り、手際のいい友人は少々荒っぽく糸切りはさみを机に置いた。

「念を押す相手を間違ってる」
「あんなに忙しいのに、わたしに、わがまま言っていいって。天童くんってなんであんな優しいんだろう」
「あんたの優しいハードル低いな」
「なっちゃんのテンションのがひくーい!」
が舞い上がりすぎなんです~」

 体育祭で当初リレーの選手に選ばれていた彼女は、手の指先の骨折もすっかり治って、今やのいちばんの恋の相談相手になってしまっている。相談相手といっても、たいてい素っ気なくあしらい、あしらわれるだけなのやりとりではあったけれども。

「天童って、一年のころからクラス同じだけど、何考えてんだか分かんなくてわたし苦手だなあ」

 例えばなんのためらいもなく、友人の意中の相手についてこういうことを言う。言ってくれる。彼女の言葉に、は首をかしげて針を止めた。

「ひとが考えてることなんて、わたし、誰でも分かんないよ」
「そうじゃなくてさー、なんていうか天童って、気まぐれじゃん? あんた信じやすいんだから、少しは気をつけなってこと」

 気まぐれ。気まぐれ? それって、天童くんが気まぐれでキスしたってこと? わたしそれでも、全然うれしいよ? そう返そうと口をひらいたところで、はひと足先に裁縫を終えた友人に逃げられてしまった。大きな横断幕の端っこにくるまれるようにして取り残されたは、自分の手もとの作業がほとんど進んでいないことに今さら気がつく。
 わたし、もう、だめかもしれない。おかしいのかもしれない。分かっているのに。頭ではぜんぶ、分かっているのに。



 二学期の終業式の日、はホームルーム終わりのごったがえす廊下で天童のことを呼び止めた。天童にとって冬休みなどないに等しい休暇である。クリスマス・イブを数日後に控え、ざわめき浮かれている廊下は立ち話には向いておらず、天童はの背中を押すと廊下の突き当たりまで歩いていった。そこから階段を二階分のぼると屋上に出ることができるのだが、屋上は滅多なことでは立ち入りできない場所で、この階段自体ほとんど使われることがない。
 埃っぽい踊り場で、こんなところで、は久しぶりに天童と二人きりになった。あの日と同じ、紺の地に白が入ったタータンチェックのマフラーが、同じ巻き方での首を覆っている。そのことに気づいて、一気に緊張がせりあがり、はあわてて肩にかけていた通学かばんのなかに手を探り入れた。

「あのね、これ、横断幕とか縫ってるとき合間につくったの。春高、チアも応援行くけど……これは天童くんだけ、特別」

 薄い紫色のフェルトの生地でつくった手作りのお守り袋をおそるおそる両手で差しだす。片手間につくったような言い方をしたけれど、ほんとうは何度も失敗したし、たくさん練習をした。白い糸で刺したステッチも、水色の紐の結び方も。天童の指が受けとったそれは、一体いくつめに挑戦したものだっただろう。

「いつもありがと」

 運動部に所属する部員たちは、男の子も女の子も、必勝祈願のお守りをかばんや用具入れなどにつけている。けれどもの知る限り、天童の持ちものにはどこにも、ひとつもお守りらしきものがくっついていなかった。だからこそ自分がそれをつくってみようと思い立ったのだが、もしかしたら、こういう願掛けのたぐいはもともと嫌いなのかもしれない。重たいのかもしれない。ありがとうの言葉とはうらはらに、何か思うところを仕舞いこんでいるような天童の表情が、には少しおそろしいような気がした。

「……どうかした?」
さんってさ」
「うん、」
「俺のこと応援してばっかりで楽しい?」
「……え?」
「いや、単純に、毎日ひとの応援だけしててよく飽きないなーって思って」

 ものめずらしそうに手縫いのお守りを眺め、刺繍のおうとつを指のはらで撫でたりしながら、天童が薄べったく微笑んでいる。今まで見たことのないような乾いた表情に、の心臓の鼓動が細かくすり潰されていく。何を言われたのか分からなかったのは、彼がそんなことを言うはずないと、自分につらく接することなどないと、彼女がどこかで信じこんでいたせいだ。知らなかった貌の奥に見えてしまったもの。それは、優しい気遣いでも、謙遜じみた気おくれでもなくて、この好意に対する淡い嘲りだった。
 返す言葉を探すふりをしながら、は無意識に天童の手加減を乞うように彼を見上げてしまっている。友人が彼に宛がった、気まぐれ、という一言が思考を覆うように頭をよぎった。今までを翻す、思いもよらなかった手さばきで。

「……あっ……わたし、このあと部活、」
「今日さ、体育館、点検入ってるんだよね」

 言葉の途中で、かばんの持ち手を握りしめていた手の甲に天童の手のひらがかぶさった。浮きあがった指の骨の上を天童の親指がじゅんぐり撫でていく。ひと撫でされるたび、は自分の脳内で、まともにはたらく細胞が潰えていってしまうのをありありと感じた。

「ええと、」
「だめ?」
「だめ、って……」

 口ごもる。何を問われているのか、解き明かそうというちからすら湧いてこない。ぐずぐずしているのことなど、天童はこれっぽっちも待ってくれはしなかった。あの日とまったく違うかたちで、後ろ結びのマフラーがほどける。というよりも、結び目はそのままに、正面から指をひっかけられて強引にはがされる。抉じ開けられるようにしてくちびるを暴かれ、は目をまわした。ごつ、と鈍い音を立てすぐ後ろの壁に彼女の後頭部がこすれる。彼のすること。していること。したいこと。異論なんてない。その隙すら、封じられているのだから。
 自分のどこで何が発火しているのか。彼の何がどうして延焼してしまったのか。謎めく熱と熱を交換しあっている。膝が震え、腕は縮こまってかたくなり、自分で自分のゆくえを決められないの頼りないからだを、いつの間にか天童が腰に腕をまわして支えていた。やさしさではない。これは、鬼の手だ。

「……天童く、」

 息継ぎをうながされ、は弱々しく首を動かした。横に振ったと思う。俯いてしまったを追いかけるように天童がの耳に歯を立てる。天童の声が彼女の下腹に落ちて、くぼんだ一点に湿地をつくった。

「ここ寒いねえ、……寮行こうか?」
「りょ……う?」
「俺の部屋、おいで」

 階下でチャイムが鳴っていることには気づいたが、それが何を告げているのかは分からなかった。重たい頭ではぼうっと考える。これからの二人のことを。「わたしのことを試して」と、そう言ったのは自分だ。そう、願ったのは自分だ。あの言葉はきっとまだ死んではいない。けれども、今ここで、自分の手で、殺すこともできてしまう。危うい天秤に己れの首をかける。例えばもし、もう一度、自分がこの首を横に振ってしまえば。

 ――そんなの、耐えられない。だったら……。

 なんともはっきりしない仕方で、それでもが小さく頷いたのを見届けて、天童はの腰をさすっていた手のひらをさまよわせた。背骨をなぞりあげ、まるで喉を圧迫するように、のうなじを大きな手のひらで包みこむ。そして、笑った。何か面白いことを見つけて、可笑しさに耐えきれなくなった子どものように。

「……ほら、ひとの応援なんかどうでもいいんだ」

さん、俺と気持ちいいことするほうが、楽しいんでしょ)

 頭をむりに引き寄せられ、耳打ちされた言葉が全身に冷えた血をめぐらせる。天童の胸の檻のなか、はその小部屋で、薄気味悪くうごめき、不鮮明に脈打つものを感じとった。これが、天童くん? ぐわりと奥底から羞恥にかきまぜられるような心地がするのは、けっして言葉の意味を汲んだからでは、ない。
 わたし、何も知らなかった。恋をすること。男の子のこと。天童くんのこと。
 そう気づいたとき、は自分にも思い及ばないような強いちからで、天童の胸を押し返していた。

「ごめん、ね、やっぱりわたし、部活行かなくちゃ」

 振り返りもせず、ただ無心で、はその小さな密室を命からがら抜け出した。
 彼の部屋。男の子の部屋。わがもの顔で居ついていた部屋。ようやく、思い知らされる。自分はこの部屋のあるじにとってずっと、招かれざる客だったのだと。









←backtopnext→

2016.10