Ⅵ 旅人であれ




 目を覚ましたとき、わたしはまるで抱きまくらみたいに、治くんの腕のなかにしっかりとおさまっていた。擦りガラスの引き戸の向こうから明かりが洩れているのか、寝室がほの明るい。つけっぱなしの照明、張りついたコンタクトレンズ、乱れた服、正しくベッドに入らなかったときの、だらしのない真夜中の倦怠が全身を覆っている。二人の温度があつくもなく、ぬるくもなく皮膚に溶けていて、気持ちよかった、とても。
 ベッドサイドの目覚まし時計に腕を伸ばし、零時過ぎを指し示す針を見てしまうまでは。

「治くん、起きて。起きて。たいへん……!」

 覚醒前の重たい腕をなんとかほどいて、裸の肩を揺する。みるみるうちに頭が冴えてきて、自分の犯してしまった失態に寒気がした。

「ん……」
「十二時過ぎてる……どうしよう、ごめんね、わたしほんとダメだ……」

 かすかな吐息をこぼし、まだひらかないまぶたを震わせた治くんの寝顔はいかにも安らかで、いつもならそれはほほえましいのだけど今日にかぎっては違う。掛け布団に絡まっていたカーディガンに袖を通し、多少の乱暴さは承知のうえで治くんの腕を揺さぶり続けた。うっすらとまぶたを持ち上げた治くんの顔を覗きこむ。短く深い眠りに落ちていたのか、ぼうっとしていて、おぼつかない。まだ夢に浸っているような彼の目に、今のわたしの余裕のなさはどんなふうに映っているだろう。

「起きて、ねえ、とにかく今すぐおうちに連絡しないと」

 声を張り上げて訴える。治くんはようやくまばたきをして目をこすり、いくばくかのよすがとなる強さでわたしを見上げた。その途端、このベッドに行き着くまでのことや、行き着いてちから尽きるまでの二人のことが、どっと湧き水のように胸に溢れてきたけれど、そんな気まずさを感じてなどいられない。治くんの唇が何かを紡ぎたそうにかすかにひらいて、閉じて、またひらくのを、わたしは酷くもどかしい気持ちで見つめていた。

「……泊まったらあかん?」
「連絡したら服着て、わたし車で送るから……え?」

 ベッドを抜け出そうと、布団のはしをめくった手が止まる。その手を、治くんはのろのろと上体をもたげながら、撫でるようにとらえた。起きたての体温を乗せた手のひらが熱い。さっきまでの夢とうつつの棲み分けは崩れ、違え、わたしは混乱していて、治くんは落ち着いていた。まだ寝ぼけているんじゃないかとか、聞き間違いじゃないかとか、そんなごまかしを払いのけるように、はっきりと。

「帰りたないです、俺」

 これがもし、よくある年下然としたわがままのようであったら。これがもし、夜の打算をつつみ隠したような媚びたささやきであったら。わたしはもう少し年上然としたつつしみを取り戻して、まっとうに彼を諫めることができたのかもしれない。
 焦りとはうらはらに、胸が詰まってしまった。どうしよう、と間抜けに立ち止まってしまった。治くんの瞳が何かを賭していた。その瞳が彼の願いを、そして、日づけを跨ぐ前に横たわっていた言葉と、肉体を、すべて冷ましてしまった。ここにあるものは何もかも、熱に浮かされた果てのまぼろしではない。こんなふうに訴えられたら、何も言えなくなる。

「帰りたくないって……でも、おうちのひとが、」

 わたしはもう、わたしのなかから彼を抑えるちからを導きだせなくて、戸惑うばかりだった。戸惑いは肯定とさして変わらない。前髪をかきあげながら治くんがおぼろに笑んで、それはみごとな美しさで、わたしの理性をとことん滞らせた。全身の血が蜜のようにとろみを帯びる、この感じ。不健全だ。

「心配せんでも大丈夫ですよ。……あのそれより、シャワー借りてもいいですか」
「う……え、待って、待って」

 わたしの腕を置いて、彼の腕がすり抜けていく。時計の針も、治くんも、待ってはくれない。十二時を過ぎて、未成年の男の子を部屋に匿って、こんな関係いよいよまともではない。
 やっぱり、十時の時計を見上げたときに、いつものように帰宅をうながしておけばよかったのか。そんなことを今さら考えても詮無い。あのときの彼にもわたしにも、お互いの話が胸に染むまで、もう少しの猶予は必要だった。ただ、キッチンにも立たせてくれなかったのは想定外ではあったけれど。

 あっけにとられて動けずにいたからだを奮い立たせ、引きずるように立ち上がる。コートのポケットに入れたままだったスマートフォンを取りだして、迷わず侑くんの番号を鳴らした。もうつかうことはないと思っていたのに、こんなことで。真夜中の突然の電話に出てくれた侑くんは、ところが治くん以上にあっけらかんと、軽かった。忘れていた。彼の根っからの奔放な匂いを。

さんって箱入りやな。友達んとこ泊まる言うとけば、たいがい大丈夫やって』

 侑くんの声は伸びやかで、眠たいのか眠っていたのか、少しゆったりとした速度で耳に届いた。治くんも侑くんも当たり前のように「大丈夫」だと言う。まじめに部活動にいそしむ高校生が、よくあることだと言わんばかりに。

「けど、そんな、親御さんに嘘ついて外泊なんてして」
さんしたことないん?』

 言葉にならない。わたしを効果的に黙らせて、侑くんはふっと笑った。通話口で音が割れる。

『まあ、親には俺が適当に言うてあるから。これでチャラってことでええやろ』
「ちゃら?」
『治に恨まれっぱなしやったらめんどそうやしい。俺かて意外と気にしいなとこあ……』

 背後から影が落ちていることに気づき、あれよという間に侑くんの声が遠のいてゆく。わたしの手からスマートフォンが離れ、取りあげられ、振り向くと上半身をさらけだしたままの治くんがとても近くに立っていた。何度も見たこともあるし、触れたこともある鍛えあげられた肉体が、今日はとくべつ凄みのあるものに感じられる。みずみずしい熱の輪郭に、息を呑んだ。

「誰が気にしいじゃボケ。今さらちっこい恨みつらみ気にするほど潔白に生きとんのか? あ?」

 切るからな、と言って治くんはわたしのかけた電話を勝手にぶち切ってしまった。まだ侑くんが何か喋っている最中だったのに、容赦なく。あっ、と思う。どうやらそれは治くんも同じだったようで、彼は自分のしたことに、すぐさまあからさまに申し訳なさそうな顔をした。しごく怯えた手つきで、わたしの手のうちに通話の切れてしまったスマートフォンが戻ってくる。

「すみません、またやってもうた……」

 濡れた髪をかいて、しゅんと肩がしぼむ。どうも治くんは双子のきょうだいのこととなると幼さが表に出てきてしまうらしい。ふつう、家族と一緒に居るところなんてあまり他人に見られないものだけど、彼らは同じ学校の同じ部で、毎日、そういう自分たちを晒しているのだ。だから、仕方ないのかもしれない。誰だって近しいひとの前で、あいだで、わがままになるし、ひねくれる。彼らの場合はそれが見え透いてしまうだけで。

「……いいよ。今日は共犯ってことにしてあげる」

 きっと今夜は、お互いさまに身勝手だから。彼らの偽物のアリバイつくりに加担して、わたしは結局、治くんを家に帰さなかった。
 ひとりで嘘をつきとおすのはつまらないことだけど、好きなひとと一緒につく嘘はひみつめいて、まるで子どもの遊びみたいだ。ベッドの上でもういちど、ソファの上でしたことを丁寧にやり直したあと、わたしたちは今度こそほんとうの眠りについた。
 おやすみ、治くん。そんなありふれた一言が、とても新鮮だった。



 朝なんて来なければいいのにと無責任な願いをたてても、目を閉じれば夜はすぐに去ってしまう。泥のようなからだをなんとか起こしたとき、あたりはもう朝というには光が溢れすぎているくらいだった。部屋の四隅まですみずみ明るい。長い眠りから覚めて、もうじきに世界は真昼を迎えるのだろう。
 ベッドのとなりはもぬけの殻で、わたしは一瞬、彼はもうアパートを出ていったのだと思った。だけど、その予感ははずれた。開けっ放しの引き戸の奥、ガウンを羽織った治くんがリビングのカーペットの上にしゃがみこんでいた。彼の視線の先には、昨日、彼が運ぶのを手伝ってくれたわたしの五枚の絵がある。キッチンカウンターに立てかけたままのそれを、彼は見ているのだか、見ていないのだか分からないようなぼんやりとした目で撫でていたのだ。

「寒いでしょ。先に起きてたなら、暖房いれてよかったのに」

 エアコンを動かしてから、わたしは、体育座りの治くんをつつむようにブランケットを肩にかけてやった。治くんが顔を上げる。おはよう、と遅い朝の挨拶をしたかったけれど、その前に彼のほうが口をひらいた。

「ずっと思ってたんやけど、さんの絵って、俺ようわからん」

 気の抜けた言葉に、目を見張る。ずっとって、いつからだろう。出会ったとき。初めて部屋にあがったとき。夏の終わり、秋の底。それとも今、ベッドをひとり抜けだし、ここに佇んで、初めてそう思ったのか。治くんの両肩に手を乗せ、わたしもわたしの絵を見つめる。彼の目を通したそれを、想像しながら。

「いちおう風景画なんだよ、これぜんぶ」
「……風景」
「そう。イメージのはじまりにはいつも具体的な景色が浮かんでる」

 治くんのとなりに一緒にしゃがみこみ、冷たい素足を並べて、わたしは左からじゅんに、ひとつずつ指をさしていった。

「これはね、小さいころよく遊んだ菜の花畑。こっちは、うちで飼ってた猫と裏庭。あばあちゃんちの桃のなる果樹園。高校の屋上から見た桜並木の道。それから、今も昔も大好きな海。ふるさとの瀬戸内海」

 わかるかな、と言って治くんを見上げる。幾重にも基調となる色を重ね、光を含ませ、輪郭を失いながら夢もうつつも膨らんでゆく。治くんはわたしがかけたブランケットのはしっこを持ち、左腕をまわしてわたしの肩を抱いた。ひとつの淡い温もりにくるまっている。正方形に収められた五つの風景を眺めながら。

「……なんかのなか、旅してるみたいや」

 それは彼なりに何かを納得したみたいな、とっくりと澄んだ声だった。治くんが見上げたわたしの目を見つめ返してくる。彼は、気づいていない。その、なにげなくこぼれた感想のかけがえのなさを。

「なに?」
「……ううん、なんでもない」

 視線をはずしてわたしは、ブランケットのなかで彼の肩に寄り添うように頭をあずけた。昨晩のあんなに切羽詰まったソファの上でも、互いを絞りとるようなベッドの上でも、彼は律儀に「さん、さん」と切ない声でつむいでいたのに、こんななんでもないときに、無防備な清々しさで、不意にわたしの名前を裸で口にする。まったく油断していた。
 ――のなか、旅してるみたいや。こんな宝物のような言葉、あるだろうか。

「治くん、今日もしお休みなら、これから少し出かけてみない?」

 自分でも思いがけない考えなしの提案だったけれど、治くんがなんの疑問も挟まずにうなずいてくれたので、わたしの心は案外すぐにかたまった。旅、なんていう大それたエスケープはできないけれど、彼と一緒にどこかへ行きたいと思った。二人、同じような道のりを旅してきたわけじゃない。それでも、体温と言葉を重ねた半年間、わたしたちはこの部屋に籠もってばかりいたわけでもなかった。
 わたしと、治くんの、二人のなかにあるあの場所へ、青い車を走らせよう。



 遅めのお昼ごはんを食べて、ゆっくり片づけと出かける準備をしてから、わたしたちは何度もそうしてきたように車の運転席と助手席に並んで乗りこんだ。日曜日の道路はそんなに空いていなかったけれど、目的の場所へは一時間もあればゆうゆう辿りつく。海岸沿いを走っているあいだ、二人とも口数は少なかったけれど気まずくはなかった。ラジオから流れる音楽も心地いい。そんな、休日らしいのどかさを分けあっていた。
 海辺の駐車場に車を停めてから、適当なコーヒーショップで熱いコーヒーを買った。カフェのなかは混みあっていて、席を探す気にはなれなかった。店を出て、防風林の生垣の下、石畳の遊歩道を歩いてゆく。いよいよ砂浜が迫ってきたころ、治くんは何か思うところがあるようすで足を止めた。つないでいた手が鎖となって、わたしの足も止まる。一緒になって振り返れば、やや遠くに、橙がかった陽射しを受けて立つ四面体の建物がそびえていた。

「水族館の最終入場、たしかもうすぐだったね」

 あの建物に二人が入ったのは、八月のお盆のころだったはずだ。とても混んでいて、あちこち小さな子どもたちがはしゃいでいて、そんなに洒落たデートではなかったけれどとにかくよく笑った一日だった。大水槽の前で熱心に何を見ているのかと思いきや、「あの魚、美味そうやな」などとおおまじめな顔で感心している治くんが、かわいくて。

「あのストラップ買いに行きませんか、また」

 意外な提案を落として、治くんが神妙な眼でわたしを窺う。彼の瞳の奥にあるものは罪悪感とは少し違う。けじめ、なのかもしれない。今日の彼がまっすぐ、つきものが落ちたみたいに平らかに見えるのは。

「ストラップって、イルカの」
「あのとき俺が壊してもうて、そのままやったから。今度は俺が買います」
「そんな、いいよ」

 笑って首を横に振る。あんな安物、やり直すほどのものじゃない。どうして趣味でもない、ありがちな土産物のペアストラップを、あのとき手にとってしまったんだろう。楽しい一日に浮かれていたのか、童心にかえってしまったのか。記念日なんて有り難がる性分でもないのに。

「きっと寿命だったんだと思うな。壊したとかじゃなくて……」

 そう、治くんの気を削ぐような言い方をしながら、自分もまた、自分の言葉に深く納得していた。壊したんじゃなくて、壊れたのだと。遅かれ早かれ、どんなかたちにも、等しく終わりは訪れる。
 冬の海岸は静かだった。耳に入るものも、目に映るものも。ぬるくなりはじめたコーヒーを飲みながら、白い砂浜をショートブーツで踏みしめる。足もとを見ていると、治くんの足がわたしよりひと回りもふた回りも大きいということに、あらためて目を見張った。わたしはとうに十七歳という年齢を通り過ぎたけど、それでも、彼がいま身を浸している一回性の季節を知らない。男の子の足で歩むその一年が、どんな温もりに、どんな雨風に、どんな輝かしさに満ちているのかということを。
 やがて泡立つ渚を前にして、二人どちらからともなく立ち止まった。まもなく黄昏時を向かえる空を映して、海は透明なひかりを纏い、規則正しい呼吸のようにさざなみをたてていた。

「わたしね、三月の終わりに、あの部屋を出ようと思ってるんだ」

 少し唐突な切りだし方だった。真横に立っている治くんの、つないだ手の先から、ひりつくような気配の強張りを感じる。深呼吸をすると冷たい空気が喉を通りすぎ、肺がかすかにささくれた。風のない午後、白い息が言葉を覆う。

「友だちの家の事情で、アトリエにしていた倉庫が売りにだされることになって。これからは大学で作業する時間が増えそうだから、もっと近くで、こっちにね、新しく部屋を借りることにしたの。……それにもともと、あそこに長居する気はなかったから」

 治くんに、昨晩、あの部屋に溜まっている思い出のことをかいつまんで話した。例えば、一度は好きでたまらなかった相手と、互いに心を浪費しなくてはならない虚しさについて。苦々しいできごとに蓋をするように、わたしはあの部屋に治くんを招いてしまった。私室の扉をひらくことが、きっと劇的に二人の距離を縮め、二週間だけの教育実習生と生徒という関係を一変させてしまうだろうと、心のどこかで気づいていて。

「このさき、わたしも本格的に就職活動しないといけないし、治くんも高校最後の一年、部活も勉強ももっと忙しくなるよね、きっと」

 つらつらとよどみなく、二人のこれからを言葉にまとめあげている自分が、自分ではないみたいだ。
 わたしのさみしさを埋めたいと、俺で埋めてほしいと、あのとき、大それた想いを治くんは伝えてくれた。言葉の意味なんてなんでもいい。ただ、言葉の響き通りに、わたしのさみしさは確かに治くんの存在を通して埋まってしまったから。あの広い部屋はもう、孤独な密室なんかじゃない。
 でもわたしは、もしかしたらあの部屋で、治くんにずっと自分のさみしさを移しかえていただけなのかもしれない。そう思うと、ただ、おそろしかった。

「別れようか、わたしたち」

 付き合おう、と言わずに始まった密な関係を誠実に閉じるにはどうしたらいいか。考えて、考えていて、でも結局、わたしに思い浮かんだ言葉はこれだけだった。治くんを見上げる。彼は、わたしの視線を受けとってから、なめらかに水平線へと顔をそむけた。黄色がかった青いみなもが揺れている。太陽はまだ拡散している。でもじきに、日没の陽は濃くなって、海の上に一本の道をつくるはずだ。すぐに闇に溶けてしまう、刹那の道。

「きれいですね」

 目の前の景色を口にしたわけではないんだろう。彼の言葉が、わたしには別様に聞こえる。たった一言、ずるいですね、と。

「初めて二人で来た場所で、海辺で、夕陽見て、……プロポーズみたいやな」

 言われたこと真逆やけど、と治くんが小さな声で、自分を嗤うみたいにつけくわえる。長らくつないでいた手が離れ、治くんは渚に沿ってふたたび歩きだした。彼の歩幅について歩く。ゆく先には、砂浜の端っこから、釣り客のひとりもいない防波堤が浅瀬に突きでていた。そのコンクリートの段差を、治くんはわけもなく踏み越えてしまう。少し驚いて、でも、やめなよとも言えず、わたしもブーツの底の砂を落として彼の背中に従った。

「俺なんてもう、うんざりですか」
「そういう意味にとらないで」
「いいんです。愛想つかされたって当然やと思ってたし、ずっと……こわくて」

 コンクリートの防波堤の中途で、治くんはちからなくしゃがみこんだ。それがあまりに急なことで、まるで空気が抜けたようにすとんと膝を折るものだから、わたしはつい反射でコートの上から彼の腕を支えてしまっていた。飲み干した紙のコーヒーカップがからからと転がる。治くんを引き上げる腕力がわたしにあるわけもなく、一緒になって防波堤に膝をつきながら、前髪に隠れた彼の顔を覗きこんだ。諦めを飼い慣らしたようなまなざしをコンクリートに突き刺して、彼の口もとにはかすかな哀しい笑みが張りついていた。

「好きなひとにフラれるのって、覚悟しとってもあかんな」

 わたしは治くんにも、彼との時間にも、うんざりなんてしてないし、愛想をつかしたなんてこともない。だけど別れを切りだしておいて、そんな弁明、一体なんの意味があるんだろう。やけに乾いた目つきをする治くんを見つめて、どうしてかわたしのなかにずぶ濡れの感情が湧いてくる。覚悟なんて、させてしまっていた。こんな不毛な関係を、こわい想いをさせてまでつないでいった先にあるものを、わたしは彼と迎えられない。

「愛してる、じゃなくて?」

 だから、弁明するよりきっと、このほうが正しい。うつむいていた治くんが目覚めるように顔を上げる。うつろだった目の奥に、生気が戻って、だけどその命は張り裂けそうな痛みを抱えているようにわたしには映った。そんな顔、しなくてもいいのに。さみしさを埋めるより、その営みはずっと険しい。言葉の響きに見合うかたちを、誰も知らないのだ。

「言えないでしょ」

 そう簡単に、愛を口にすることなんて、できないほうが幸せなんだ。
 遠くから船の汽笛のようなものが聞こえ、二人、冷たいコンクリートの上にしゃがみこんだまま、しばし視線を海に投げた。
 治くんのとなり、穏やかな日没の海を見つめながら、この景色がいつかあの五枚の絵のように、わたしの額縁のなかの世界に変わるところを想像してみる。旅をするということは、自分の眼で見た風景を刻むということ。海を泳ぐ魚ではないわたしたちには、この防波堤が行き止まりだけれど、手の届かない向こうまで、何か同じものを見渡すことはできるのかもしれない。
 そんな永遠をいつかこの手で描いてみたい。それがたとえ、十年、二十年先であっても。









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2018.3