Ⅱ デイドリーム - 1




「えー、治、美術なんかとんの? 提出めんどくさいやん。音楽やったら、毎週DVD見てたら終わるらしいで」

 高校一年の学期末、「美術」の二文字にまるをつけた俺の選択授業の希望用紙を覗きこんで、侑は「信じられへん」ととなりで首をひねった。
 稲荷崎では二年時から選択必修であったり、進度別科目であったり、クラスを横断した授業がどっと増える。芸術選択もそのひとつで、俺はとくに何も悩まずまっさきに美術を選んだ。成績も今までそう悪くはなかったし、見たままを言われたとおりに描いたり彫ったりするのも嫌いではなかったし、何より音楽を選択した場合に立ちはだかるであろう実技テストが苦痛極まりなかったからだ。
 ところが要領よく事前に先輩らから授業の雰囲気をあれこれ聞きだしていた侑によれば、二年の音楽を担当する教師はずぼらで、そんなテストは滅多に行わないらしい。曰く、「寝てれば終わる」。その事実を俺が知ったのは、すでに選択希望の締切が過ぎてしまったあとだったのだが。
 運動系クラブのやつらはほとんどいない、寝てても終わらん授業に、こうして俺は一年ものあいだ放りこまれることになった。準備、片づけ、提出の三拍子が揃った、黙々と手を動かし続ける授業。それでも、週に二時間、ぎゃあぎゃあうるさい連中と離れてひとりで居るのも悪くはない、俺にはこっちのほうが合うとる、まあええか、そう自分を納得させていた。
 そのむりやりの納得は、数ヵ月後、人生最大の幸運に変わる。



 はたった二週間だけ、俺の「先生」だったことがある。夏が助走を始めるころ、俺たちはまだ「さん」と「治くん」ではなく、「先生」と「宮くん」だった。
 ちょうどインターハイ予選が明けた翌朝の全校集会で、十人弱いた教育実習生のひとりとして、はあたりさわりのない挨拶をした。したのだと思う。俺は眠くて、ほぼ立ったまま寝ていたから、何も覚えてはいない。のことをまともに認識したのはその日の授業がすべて終わったあとだった。彼女は俺のクラスのホームルームを二週間受け持つことになっていたのだ。
 といいます、と彼女が自分の名前を黒板に書く。あまり緊張した様子のない、おっとりとした声。筆圧の薄い、おそらく板書には不慣れな丸文字。初々しさよりも、少しの投げやりさを感じた。ありふれた黒いスーツに身を包んでいても、けっしてここに溢れるしょうもない規則たちに彼女は馴染んでいなかった。

「先生は彼氏いるんですかー?」
「出身はどこですかー?」
「大学院って何するとこー?」

 は何を訊かれてもにこにこ笑って、かわすべきことはかわし、答えるべきことは細やかに答えた。分け隔てのない感じのいい雰囲気と、華やかさはないが整った顔立ちが、女子にも男子にも受けがよかったようで、二日目には多くのクラスメイトが「ちゃん、ちゃん」と彼女のまわりに群がっていた。げんきんな男どもが「美術選択しときゃよかったー」と口々に洩らす。くだらないと思った。そうやって軽々しく囃したてることも、囃したてられているものも、むしろその輪の中に取りこまれてたまるかという斜に構えた反骨心すら芽生えていた。だけど結局、この教室にいる誰よりもに踏みこんで、入りこんで、そしてまた自分もそうされたいと願ったのは俺なのだから、きっとあのときから腹の底では嫉妬に似た感情を囲っていたに違いない。興味ないふりをして、逆張りもいいところだ。

 美術の授業は週に一度、水曜日の午後のたったの二時間しか割り当てられていない。その日の課題は水彩の写生で、全員で校門を出てすぐの土手まで行って、思い思いに河原の風景をスケッチした。この時間、俺はいつもひとりでいる。絵を描きにきているというより喋りにきているような迷惑なやつらから距離をとり、俺は画版に紙を留めた。晴れた空の熱を邪魔しない程度に、風は弱いが、薄い雲が流れている。まだ梅雨の気配はない。

「きれいな空の色」

 が俺に独り言のような声をかけたのは、授業が始まってだいぶ時間が過ぎて、校内ではおそらく五限終わりのチャイムが鳴るころあいだった。陽にあたってぬるく温まっていた背中に突然、影が差す。視線を横に切ると、雑草を踏みしめるローヒールのパンプスが見えた。パンツスーツでやや窮屈そうに斜面にしゃがみこみ、は描き途中の半端な俺の絵と、手を止めた俺のことを覗きこんだ。

「上手だね。美術は好き?」

 そのときは、こんななんでもない一言に答えるのも変に緊張したが、きっと彼女はクラス中を回って同じようなきっかけで生徒ひとりひとりに話しかけていたんだろうと思う。あるいは俺が離れたところでひとりでおったから、話しかけやすかったのか、不思議に思ったか。どちらにせよ、このめずらしさの欠けらもない生徒と実習生の一コマが、俺との始まりの初めの一歩だった。

「ぼうっとしとったら何とかなるんで、好きです」

 少し考えて、俺はそう答えた。なんだかアレが「美術」ではなく「音楽」を選択したのとそっくり同じ理由が口を突いてしまって、忌々しい。都合よく自分とよく似た器を隠れ蓑にしている。自分の声が思っていたよりもすげなくて、逆に意識しているのがばればれだった。少なくとも自分に対しては。

「ぼうっとしてたの?」
「はあ、まあ」
「すごく、丁寧に描けてるのに。あとね、こういうところは、色を塗るんじゃなくて乗せるイメージで描くともっと……」

 が、ちょっとだけ貸してね、と筆洗の水に突っこんであった太めの平筆を手に取る。筆先の水を切って、俺のパレットの上につくられていた薄い青の色をすくう。スーツの皺やブラウスのボタンばかり見つめているのも奇妙な気がして、俺は、少し顎を上げての横顔を盗み見た。しばった髪の後れ毛を耳にかけなおし、存外にどこか楽しそうなあどけない表情で、手を動かしている。の実技指導に目を向けるのも忘れて、俺はそのまましばらく、のよくできた顔のつくりを観察していた。

「どうかした?」
「……いえ」

 気づかれてようやく、視線を逸らす。またなんでもないふうに、素っ気なく。そういうそぶりしかできない自分はガキ臭かった。彼女といると、俺はときどき救いようもなく幼くなる。
 それから俺はあらためて、からいくつか筆の使い方を教わった。水彩絵具をぼかして、色を幾重にもに重ねるやり方や、置いた色を馴染ませ、薄くひろげてゆくようなやり方を。言われたとおりに筆を動かす俺を、は「器用だね」と言って褒めた。
 たった数分のできごと。
 淡い甘い匂いが去っていく。その日、それ以上、と話す機会は訪れなかった。美術の授業が週に二時間しかないことを、俺はすでに恨めしく思いはじめていた。



 授業を除けば、と過ごせるのは毎日のホームルーム、週に一度のロングホームルーム、放課後の掃除の時間ぐらいのものだった。教壇に立ってが連絡事項を話すのを、茶々を入れるクラスメイトたちとのやりとりを、俺は廊下から二番目のいちばん後ろの席からいつも頬杖をついて眺めていた。の顔だけを。それはちょっとしたゲームだった。視線を寄越されれば、その端っこを受けとめ、すぐに目を伏せる。こんな一方的で失敬なふるまいができてしまうのも、が一段高いところから話しかけてくる存在だったからだ。この距離をもどかしく思いながらも、きっとこの距離にこそ甘えていた。まぎれもなく彼女の、生徒のひとりとして。

「あ、宮くん」

 が実習に来てちょうど一週間が経った月曜の昼休み、俺は廊下で彼女に呼び止められた。インターハイ予選の決勝戦でやや痛めた膝のぐあいをコーチに報告して、体育教官室から教室に戻る途中のことだった。

「引き止めてごめんね。視聴覚室に行きたいんだけど……迷っちゃったみたいで。あっちの渡り廊下であってる?」

 稲高の校舎はやや複雑なつくりをしていて、中央の本館から二階の渡り廊下が西と北に延び、ふたつの別棟とつながっている。一年生はみな入学して一ヵ月は移動に苦労するものだったから、この高校の卒業生でもないが迷うのもむりないだろう。
 と話をするのは、あの授業日以来だった。戻るはずだった教室とはまるきり正反対の北館へ、俺は自分も用事があるからとなかばあからさまな嘘をついて、彼女のとなりに並んだ。並んでみるとあらためて、はちっこくて、細くて、あの淡い甘い匂いがまた胸に染みこんできた。

「よう覚えてますね、生徒の名前」

 からかい半分、期待半分だったが、なんてことはない。すぐにいなされた。

「ええ? 毎日、みんなの顔見て、出席とっているでしょう。それに……ふふ、女の子たちと喋ってると、きみの名前がよく出てくる」

 人気者なんだねえ、とが呑気に言う。俺はなんだかばつが悪いような気持ちになって、話題を変えないといけないという妙な焦りに急き立てられ、つい、考えもなしに不用意なことを訊いてしまった。そういえば、先生はなんで美大に行こうと思ったんですか――と。当たり前のように彼女のことを「先生」と呼んでいる、そう呼ぶしかない自分に、そのときどうしてか違和感を覚えた。俺の言葉に、がはっとして顔を上げる。

「宮くん、美大進学に興味があるの?」
「え……いや、とくに」

 そう問い返されて、たじろいだ。喉もとの近くにあったなにげない質問だったが、俺はもうごまかしようなく、に、彼女自身にまつわることに興味があったのだと、自分自身に気づかされる。これでは実習初日に「彼氏いますか」などと声を上げた連中と似たような根性ではないか。急に黙ってしまった俺を見上げて、は会話をすすめるための優しい笑みを向けた。まったく、「先生」らしく。

「たいそうな理由はないんだよ。ただ、絵を描くのが好きだったから。考えなしだったのね、わたし」

 廊下の窓のかたちに切り取られた四角い日なたの上をいくつも渡りながら、がするりするりと、にこやかに話す。何度かほかの生徒にもそうやって説明をしたことがあったのかもしれないと思う。それでも、俺にとって彼女の口ぶりは、彼女の深いところへと続く一本のかすかな光の線だった。水彩絵具のあしらい方や、筆の動かし方を教わるよりも、ずっと。

「不器用でも、不格好でも、自分の手で何かつくりあげたとき……つくってるときかな、安心するんだよ、すごく」
「……楽しい、とかやなくて、安心するんですか」
「楽しいよ、もちろん。でも、なんていうのかな。描いてないと不安になってしまうから」
「……ああ」

 分かるかもしれない、と思った。「かもしれない」というぐらいの生煮えの同意では、深くうなずくことも、相槌を打つことも俺にはできなかったけれど、のそよそよと穏やかに過ぎゆく声を聞きながら、頭の隅には自分にとって唯一無二のそれを思い描いていた。好きで、楽しくて、でもときおり、やりきれない不安がつのるもの。は、首から下げているネームプレートの紐を指先で軽くもてあそびながら、ふと、息つくようにはかなく目を伏せた。

「でも、ほんとうに好きで、楽しいだけなら、この実習にも来てなかったかもしれないね」

 彼女にとって絵を描くということは、好きなだけの趣味でも、楽しいだけの遊びでもない。その迷いが、を俺のもとに来させたのだとしたら。ずるいことだと分かってて、勝手な料簡だと分かっていて、それでも、俺はそのの弱さに、こっそりと感謝せずにはいられなかった。
 俺は神様なんか信じてへん。幸いな偶然は、けっして積み上げた善行や、正義や、純朴さが導いてくれるものなどではないのだ。



 がいなくなる、最後の金曜の昼休み、俺は美術室のとなりに連なっている美術科準備室に足を運んだ。二日前のの研究授業で出たジャケットデザインの課題を提出するためだった。外の提出用のボックスに入れておけばそれでいいのだが、準備室のドアを叩くことにためらいはなかった。ふたつ、ノックする。はあい、との涼やかな声が響いてくる。ドアのすきまから顔を覗かせた俺を見て、は驚いた様子を見せながらもどこか余裕をもって、楽しげに笑い返した。部屋に満ちる銀色の陽ざし。まぶしさの刺繍が、まぶたの裏ににぶい痛みを残してゆく。
 好ましく思っている相手に自分の好意を気づかれている、その独特の心地よさがすでにあった。当たり前だ、大して隠そうともしていなかったのだから。だけど、はこの好意の深さや好意の種類までも言い当てることができるだろうか。それができないのだとしたら、分からせたい。分からせてやりたい。知らないままでいさせたくないという、やや乱暴な欲に俺は突き動かされていたのだと思う。このときは、これで最後だと思っていたからこそ。

「何、ですかこれ」

 持ってきたスケッチブックをそこらに置いて、工作椅子に腰かけながら、の手もとを見やる。彼女は作業台にまな板のような木版を乗せて、その上で熱心に粘土のようなものをこねていた。スーツのジャケットを脱ぎ、白いシャツの袖を肘までまくって。

「一年生の授業で、いま陶芸をやってるの。その粘土づくりをしているところ」
「……雑用、押しつけられたんですね」
「んー、そうとも言うかも」

 あはは、とが型抜きしたみたいにくっきり笑う。頭がかすかに揺れて、耳にかかっていた髪の束がの頬に落ちてくる。彼女の髪は細くまっすぐで、癖がない。ゴムでひとつにしばっていてもすぐほつれてしまうようで、授業の合間にもよく髪を結び直しているのを見かけた。うっとうしそうに粘土のこびりついた指で髪をかきあげようとした彼女を、そのとき、俺は二の腕のあたりをつかんで無意識に制していた。びく、との震えが手のひらに伝わり、すぐに手を離す。俺は初めて、に触れた。

「髪、結び直したほうがええですよ」

 まじまじとのまるっこい瞳を見つめて、そう言った。「先生」という肩書きや、「年上」としてのたしなみが、はからずも抜け落ちてしまったようなその目を。二週間の実習期間の終わりになってようやく、彼女を覆う仮面をずらして、殻に守られたこわごわとした一面を発見している。のほうだって、今になって俺という存在の厄介さに気づいてしまったような顔だ。何かを得ようとするとき、ひとは必ず何かを捨ててる。少なくとも、捨てる覚悟をもっている。はぎこちなくとりつくろおうとしたが、俺はもう、のっぺらぼうの生徒Aには戻れなかった。匿名の平穏を捨てたのだ。

「そう、だね。でも手が」
「俺やりましょうか」
「えっ」

 立ち上がる。もたついているうち、日常の落ち着きを取り戻したにていよく拒まれてしまわぬように、やや強引な手つきでの後れ毛の束と、ゆるまっていたゴムに指をかけた。すうっとなんのとっかかりもなく黒髪が落ちる。俺はの背後にまわって、そのほどけた髪を両手で水のようにすくいあげてみた。鮮やかな手ざわり。それは水といっても、真昼のひかりをたっぷりと含んだ、温かい水だったけれども。

「じっとしててください、先生」

 やりましょうか、とは言ったものの誰かの髪をくくるなんてことはもちろんただの一度もやったことはなくて、けれど、のためならばそれくらい完璧にこなせるだろうという根拠もくそもない自信だけはあった。指をいれ、とかし、後れ毛をまとめ、ゴムの環に通す。一心に粘土をこねていたの手はすっかり止まってしまった。ようわからんけど、おそらくその土、表面が乾いてもうダメになってしまうだろう。

「……宮くんは器用だね、やっぱり」

 褒めているのか、呆れているのか。その声。「宮くん」と俺を呼ぶ声。筆の運び方。デッサンの授業。昼休みとホームルーム。やわらかな髪に指を入れる、たった一分間の、夢よりも夢のような恋の冒険。
 それが、二人の最後の思い出になると思っていた。









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2018.1