Ⅱ デイドリーム - 2




 その、懐かしい横顔を、駅前のロータリーへと向かっていく人波のなかに見つけたとき、俺のからだは自分でも驚くほど異様な速度で脈を打ちはじめた。人いきれの熱をわけて、かきわけて、遠のいていきそうな後ろ姿をはやる気持ちで追いかける。なんにも、なんも、繰りだせる手持ちなんてなかったが、それでも駆けださずにはいられなかった。歩道橋を足早に降りて、二番乗り場の列に並ぼうとしていた彼女の、かばんの端に指を触れる。間違いない。どんな格好をしていても、の姿かたちを、俺はけっして見間違うことができなかった。

「先生、先生」

 ぶざまな息切れをごまかそうと、熱い空気を喉にとりこむ。振り返って俺を見上げたが――そう、確かにそれはひと月ぶりに会うだった――濃い睫毛にふちどられた瞳をゆっくりとまたたかせる。先生、と口走った俺の声は上擦っていて酷いものだったが、そんなことは正直どうでもよかった。

「……宮くん?」

 俺は息を呑みこんで、はい、とひとつうなずいてみせた。
 七月の、夏休みが始まる一歩手前の月曜だった。インターハイの初戦を二週間後に控え、しだいに四肢の先から奮い立ってくるような、ほどよい慌ただしさと緊張を感じはじめていた。こんな、ただでさえ細胞があちこち騒いでいるのに、が自分の名前を憶えていてくれたことに、どうして浮かれずにいられよう。そもそも最初から、足なんか着いていないのだから。が笑えば、それだけで俺は正体不明の浮力に担がれ、根も、葉も、実もない剥きだしの感情のとりこになってしまう。

「うわあ、久しぶりだね。元気にしてた?」

 の目のなかに引っかき跡のような西陽の線が走っているのを見たり、見なかったりしながら、俺はとにかく、この機を手放すまいと必死だった。あの真昼の美術科準備室で、すべて終わりだと思っていたくせに、少しでも可能性がちらつけばけっきょくまた手を出してしまうのだ。

「先生、最寄りなんですかここ。俺、こっからバス乗ってて」
「そうだったんだ。わたし、いつもは車なんだけど、いま友だちに貸しちゃってて……」

 車のときの感覚で買い物してたら、ちょっと、買いすぎちゃったみたい。は困ったふうに笑って、両腕にいくつも抱えた食料品や日用品の買い物袋をよいしょと持ち上げてみせた。眉を下げた表情に翳りがちらつく。俺の目には、それは、今まで見たこともない愁いを含んでいるように映った。今までと言っても、誇れるような時間も距離も何も共有したことなどなかったくせに、人知れず偉そうに。
 停留所に始発のバスが止まる。並んでいた列がゆるやかに動きだす。帰宅するだけならほんとうは遠回りになる経路の路線バスだったが、ためらわずに俺はその列に紛れた。がこのバス停に立ち止まったときから決めていたことだった。

「俺、持ちます」
「いいよ、大丈夫」
「持たせてください。先生なんか、しんどそうや」

 もっともらしい口ぶりでそう言って、俺はの腕から、いちばん重たそうなホームセンターの紙袋と、彼女の腕に赤い圧迫痕をつけていたスーパーのレジ袋をひとつ奪った。紙袋のなかには組み立て式の棚のキットのようなものが入っているらしく、箱のパッケージが袋から若干はみだしている。ふつうに、重い。こんなの持ってバスに揺られていたら、はあっさり腕を痛めてしまうだろう。片腕でその厄介な紙袋をかかえ、制服の右ポケットから定期入れを取りだす俺を、はひと足先にバスのステップをのぼって何かものめずらしそうに見守っていた。細い通路をすすみ、ひとり掛けの座席は空いていたが座らず、奥の吊革に二人で並ぶ。それからもういちど、は俺を上から下へゆるりと眺めた。

「なんですか」
「あ、ごめんね……十代の男の子は一ヵ月見ないだけでも変わっちゃうなあ、って。宮くん、もとから大人びてたけど」

 荷物ありがとう、とが流れゆく窓の向こうに視線を移しながら、言う。彼女の目に映る自分の変化に、「大人びている」という形容に、自分ではまったく心当たりがなかった。むしろこんなにも変わっていない。彼女の前で、浮足だっててんぱって、それを恥じたくなるぐらいには。は何かを履き違えている。だけど、彼女のなかに、自分に対して誤解しえるほどの記憶が堆積しているのだと思うと、汗のひかないからだがまた熱くなってゆきそうだった。
 からからの喉を動かして唾をのみこみ、がそうしたように、視線を上下につかって彼女を眺めてみる。腰に切り返しのあるくるぶし丈のグレーのワンピースと、かかとの低い白のサンダル。髪は、少し切っただろうか、ゆるく毛先を巻いて肩におろしている。とても、かわいい。

「先生も、変わりましたよ」
「そう?」
「いや……まあ、服とか、髪とか、雰囲気ちゃうし」

 髪、となにげなく口にしたとき、ほとんどむりやりつくったとの忘れがたい最後のひとときの、向こう見ずで出過ぎた自分の所業が脳裏をよぎった。瞬間、火が着いたように急に耳が熱くなっていくのを感じる。へまをした。は、俺があの日を思いだしてしまったことに、気づいただろうか。生徒に髪を触れられたあの数分を、思いだしただろうか。の綽々とした笑みからは、何も読みとることはできなかった。

「そっかあ。就活生みたいなカッコだったもんね、毎日」

 荒い運転のバスに揺られながら、俺たちはぽつぽつとあたりさわりのない話を続けた。きっと変に会話のラリーが途切れないようお互い心がけながら、美術の授業でいま何をやってるのかだとか、クラス対抗の球技大会の結果だとか、駅前のブックストアの品ぞろえについてだとか、そんな、か細い共通点をつなぎ合わせていくように。大したことはない。それ以上のことを話せていたら、こんな偶然にすがってなどいない。目の前の降車ボタンが光るたび、俺は内心、情けないほど怯えていた。

「わたし、次のバス停で降りるね。宮くんはもうちょっと先?」

 そして、あっという間にそのときが訪れてしまう。誰かが押した降車ボタンが紫の光を灯し、「次、止まります」という機械的なアナウンスが車内に流れる。何かないか、何かないのか、瀬戸際まで考えて、俺の目に飛びこんできたのは腕にかかえていたあの大げさな紙袋だった。

「……あの、これ」

 いちかばちか、俺はあのとき、かなり分の悪い賭けにでた。
 相手をかえりみない向こう見ずなやり口はアレの専売特許と思っていたが、俺もたいがい、怖いもん知らずなのかもわからん。
 しゃくやけど、その揃いのDNAのおかげで、俺は彼女のアパートに着いてゆくことができたのだ。



 エレベーターのないアパートの内階段を五階までのぼりきり、彼女の部屋のなかへ案内されたとき、俺は色々なものをふっ飛ばして軽はずみにの生活圏に足を踏み入れた自分を殴りたいような気持ちになった。
 独り暮らしにしては広々としたつくりの1DK。散らかってるけど、と言っては俺を招いたが、その部屋の散らかり方は想像していたのとはだいぶ違っていた。住み慣れた生活感はあるのに、家具の配置がぎこちなく、とこどころいびつな空虚さが潜んでいる。ダイニングの端、本来なら食卓を置けるスペースにのちょっとした作業場があり、俺が運んだのと同じタイプの木棚がつくりかけになっていた。
 どんなにとりつくろっても、今はひとり、というのがなんとなく分かってしまう。はそんな、不自然なさみしさに充たされた部屋に暮らしていた。

「ここにね、画材を置く棚が欲しくて。……ほんとうに、任せちゃっていいの?」
「はい。設計図通りに組み立てるだけやし」
「その『だけ』が難しいのにな……」

 はまだどこか申し訳なさそうに、そして、この部屋に俺が居るということに馴染めないというような複雑な顔をしていたけれど、つとめて知らないふりをした。無茶を言ったのは俺だが、引き入れたのはだ。そうやって、責任を等分にしようとしていた。
 は「難しい」とぼやいたが、シンプルな棚を組み立てるのに難しいことなど何もなく、作業はスムーズに運んだ。家でも母親にねだられてたまに日曜大工をやらされる。そういうとき、片割れのほうはやれ指先に怪我したら障るだとかなんとか言って、ていよくサボろうとするわけだが。
 買ってきたものを整理したり、キッチンに立ち、家事をこなすの生活音を耳に入れながら、俺は黙々とからむりに奪った仕事に熱中した。手先を動かしながら、頭はまったく別様に動いている。のことを考えていた。と自分の、これからがあるとするなら、と。

「宮くん。麦茶、新しいの置いておくね」

 三十分ほど時間が経っただろうか、気づくとあたりには赤々とした濃い夕陽が降り注いでいた。が盆にのせた麦茶のグラスを置いて、軽いつま先立ちで、天井の照明をつける。それから、彼女は中腰になって背後から俺の手もとを覗きこんだ。

「……だいたい、こんな感じでええですか。あとで中に棚板つけますけど」
「わ、もう一個できちゃったの?」

 すごい、と言って、があぐらを組んで座っている俺のとなりにしゃがみこむ。そんなふうに近づかれたら、初めてと話をしたとき、晴れた土手の斜面で、彼女につたない絵を褒められた日のことを思いださずにはいられない。あのときも髪を耳にかけ、は俺の手がつくったものを興味深そうに眺め、目をまたたかせた。みぞおちのあたりが、煮えて、冷房のきいた部屋でも熱くてたまらない。汗のついた手のひらを、ズボンに何度かこすりつけた。

「さすが宮くん、器用だねえ、ほんとうに。わたし、絵を描くのは好きだけど、立体ってからっきしで……」

 の声は耳に入っていても、相槌を打つことすらできないぐらい、頭には何も入ってきていなかった。少し身を乗りだして、俺のつくった白い木製のラックを、がそっと指をすべらせたり撫でたりして確かめている。そして今日いちばんに近づいた距離のなかで、俺を見上げた。彼女に笑いかけられ、前髪の揺れるこそばゆさが、全身を逆立てる。

「宮くん、すこし休憩する? あのね、実家から桃もらっ、」

 ラックのかどに触れていたの右手が震えるのを、視界の端に捉えた。それが最後で、それが最初。ふたたび目をひらいたときにも、彼女の右手はすがるように、その真新しい棚のかどっこをつかんだままだったから。苦しい。息ができない。頭ンなかの酸素、ぜんぶ、この感情に食いつぶされてしまった。こんなにも傍にいるのに、がどんな表情をしているのか、どんな想いを湛えているのか分からない。俺はただ、の目の奥を見るばかりだった。

「……先生ここ、誰かと住んでましたよね」

 こういうときもっと、先に言うべきことがあるはずだった。それなのに俺は、一体どういう立場からものを言って、こんなことをあけすけに尋ねてしまっているのだろう。この部屋に入ってからずっと、訊きたくて、訊くべきではないと思っていたこと。俺はに言葉を、行為を投げつけることで初めて、自分のどうにもならない嫉妬深さを思い知った。

「誰かって……」
「なんでも、半分しかないですもん、ここ。穴があいとるみたいに」

 この部屋にも、自身にも。塞ごうとして塞げていない、あるいはまださわりたくないのか、見たくもないのか、ただおざなりに隠しているだけのぽっかりと空いた穴。

「先生、俺」

 今しかない、と、その先に紡ごうとした言葉は、のはかない抵抗によってあっけなく遮られた。うつむいた頭を横に振って、彼女の手が、俺の肩を遠ざけるように触れる。初めて、彼女のほうから。拒絶されているはずなのに、その態度はすでに今までの二人をはるかに逸脱していて、どういう感情を持てばいいのか困惑した。弱々しいちからで俺を拒みながら、が口をひらく。彼女の声は薄く濡れていた。

「だめだ、ごめん。ごめんね……ほんとに、最低」
「……せんせ、」
「生徒のこと部屋にあげて、こんな、宮くんの気持ちわかってたのに……」

 わかってたのに。その一言だけで、心臓の半分が一気に削りとられてしまったかのような重たい衝撃に貫かれた。わかってた? 肩を抑えるの腕を振り払って、逆に、つかんで引き寄せる。はよろめいて前のめりになり、フローリングに膝をついた。喜怒哀楽だとか、そんな大雑把な分類になんも意味はないけど、もし当てはめるならば明らかに俺は怒りに震えていた。のその、ひとり閉じこもった後悔に。

「わかってへん」

 目のまわりを赤くしたが、俺を見つめかえす。初めて見るの幼さと、意固地さ。ようやく同じ高さで二人、目を合わせているような気がした。

「俺はもうあんたの生徒やない。『先生』とももう呼ばへん。『さん』……なあ、これならええの?」

 の顔をよく見ようとして頬骨のあたりに滑らせた親指の先に、こぼれそうでこぼれなかった透明な涙が、とうとうじわりと滲む。このたったひとつの決壊が、世界をがらりと変えるのだと思う。こぼすか、こぼさないか。触れるか、触れないか。さらけだすというにはほど遠いが、何かを共有しなければ始まらない。そして俺たちには、今が、そのときだった。

「さみしいんやったら、埋めて、俺で」

 俺に埋めさせて。俺をつかって。利用して。俺を、そのさみしさの道連れにしてくれたらいい。せわしないの呼吸のすきまに、そんな言葉を突き立てる。誓いを立てるように。勇者の、剣の切っ先のように。だけどべつに、言葉の意味なんてなんでもよかったのだ。の涙をぬぐって、ひたいにひたいを合わせれば、俺たちはもう「先生」と生徒ではなくなるのだという確信があったのだから。
 穴ぼこだらけのこの部屋に、は俺の気持ちを「わかってて」招いた。俺はその弱さにつけこんだ。そんなに、気持ちのええ話じゃない。俺で埋めて、なんて偉そうに言ったけれど、あのとき胸の空虚に憑りつかれていたのはだけではなかった。
 献身でもなんでもない。あんなのただの、欲望の押しつけだ。それが、恋だった。



 あれから半年の月日が経って、この部屋はすっかりのものになった。もう、いびつなさみしさは探したってどこにもない。俺のつくったふたつの棚も、の大切な画材道具でにぎやかにあふれ、この部屋の一角をみごとに埋めていた。目に見えて彼女の部屋は、彼女の裁量で、彼女の城になってゆく。だけど、心の穴は、どうか。そんなものはもちろん、誰の目にも見えやしないことだ。
 年が明け、も俺も落ち着いてようやく二人になれたのは、一月も中旬にさしかかるころだった。彼女の部屋には、また彼女好みの「もの」が増えていた。ロンドンで買いこんできた菓子類、温かそうなマフラーや帽子、本、画集、雑誌、そのほか細々とした雑貨たち。俺は、クリスマス・イブにからもらったセーターを着てこの部屋のインターホンを押したが、きっとそれもたいそう「彼女好み」だったに違いない。

 ――うん……うん、いいかも。あはは、うん、そういうのも明日ちゃんと決めよう。ありがとう、わざわざごめんね。じゃあね、うん……。

 ダイニングと寝室を区切る擦りガラスの引き戸の向こう、かれこれ五分ほど洩れつたってきていた彼女のこもった声がようやく途切れる。内容との声色で、相手が誰か、もちろん会ったことなどないやつだろうが、だいたい察しがつく。過剰に聞き耳をたてていたことを悟られないよう、俺はスマートフォンを適当にいじりながら、寝室のドアをひらいたを出迎えた。

「待たせちゃってごめんね。今度のグループ展のことで色々あったみたいで……紅茶、大丈夫かな。ちょっと蒸らしすぎちゃったかも」

 は手に持っていた自分のスマートフォンをソファに置いて、いそいそとキッチンに向かった。ティーポットで丁寧に淹れた紅茶をカップに注いで「濃いかなあ」なんてぶつくさ言っている。俺はふと、クッションを手にとるついでを装ってソファを振り返った。のスマホ越しに、謎の新入りと目が合う。電気スタンドを置くサイドテーブルには、風呂に浮かべるアヒルのおもちゃのようなものがいくつも並んでいた。

「……これも、ロンドン土産ですか」

 すり足で慎重に紅茶を運んできたに尋ねる。ローテーブルに盆を置いて、は俺のとなりにぺたりと座った。アヒルの一匹を指でつまみあげて。

「そうだよ。色んなところで売ってたから、つい集めちゃった」

 よく見れば、彼らはただのゴム製のアヒルの群れではなく、それぞれの名所や観光地にちなんだ個性的な衣装を身にまとっているようだった。向こうの、ご当地キーホルダーのようなものなのだろう。はつまんだアヒルのくちばしで、シャーロック・ホームズ風のアヒルをいじめていた俺の指をじゃれるようにつついた。見つめあう三秒。ばかばかしさと幸福の副作用で、空気が緩む五秒。が子どもっぽい笑みをこぼすとき、それはだいたい、子どもにはなしえない遊びへの手引きだった。

「そうだ、治くん。あとでアヒルちゃんと一緒に、お風呂はいっちゃおうか」

 その誘いが果たして本気なのか、俺をからかう冗談なのか。分からないまま、「いいですよ、二人でなら」と俺は返す。なんでもいい、二人でなら。こんな思わせぶりな伏線を張られたら、もう、本場の美味い紅茶の味なんかまったく分からなくなってしまうのだろう。

 いま、からりと笑いあえているこの距離も、半年前は湿っぽくてかなわなかった。
 あのころと同じような充たされなさも、穴ぼこも、この部屋にはもうどこにもなかったけれど、だからといってこの関係が万能だともとうてい思えないでいる。悪いことなのか、仕方のないことなのか分からない。近づけば、近づくほどまた、見たこともない不安の種が、見たこともないさみしさの花を芽吹かせた。
 このさみしさはきっと、恋人たちの特権なんだろう。









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2018.1