Ⅲ 無敵 - 1




 この場所にはどこもかしこも懐かしい匂いが染みついているから、ふとした瞬間にうかつな深呼吸などしないように、いつもより少し慎みをもって息をする。いつもよりほんの少し、息をひそめてここに居る。この入り組んだ校舎、居眠りをした覚えのない教室にも、通ったことのない廊下にも、手紙を忍びこませなかった下駄箱にも、十代の自分の面影がうっすらと滲んでいるような気がした。五年という歳月は長いようでいて、大人になるにはまだまだ生半可なものだったみたいだ。十代のころの記憶とたしかな距離をとれないままでいる。もうここに安らかな居場所はないのだと思い返してしまうことが、その切ない気持ちが、何よりわたしの未熟さのしるしだった。こんなのまったく、「先生」らしからぬ感傷だけれど。

「――そしたら、そしたら、宮くんがおってな」
「宮くん、どっちのよ」
「こっちのですー。宮くん、部活で手一杯やからってえ、4組のタナカさんの告白断っとった!」

 うるさかった黒板消しクリーナーのスイッチを切ると、教室に残っていた女の子たちの声がつぎつぎに耳にかぶさってくる。噂話や恋の話のたぐいは、果たしてこの教室の正しい住人ではないわたしに聞こえてしまっていいものなのか、ここで憚らず話し続けているということは聞いてもいいことなのだろうか。黒板消しをチョークに持ち替え、明日の日づけと日直名を書き入れる。毎日のルーティンには慣れてきたけれど、パンツスーツで過ごす一日にはまだ少し慣れない、それは教育実習四日目の放課後のことだった。

「ねえねえ、ちゃん。宮くんわかるう?」

 手のひらをこすってチョークの白粉を指先から払っていると、教卓近くの机に座っていた女の子がひとり、振り返って「ちゃん」とわたしを呼んだ。応えないうちに、「うちのクラスの」とすぐに別の子の楽しげな合いの手が入る。念を押されなくとも、わたしの頭に浮かんでいるのはこのクラスの「宮くん」だけだった。そう尋ねられ、思いだされるのはついさっきの帰りのホームルームのことだ。教卓の上って、どきっとしてしまうほど、生徒の顔とふるまいがよくよく見える。明日は進路希望の紙を書いてもらうからね、とか、その日の連絡事項を伝えているとき、彼はまわりの子とはだいぶ様子が違う。机の上の通学かばんに肘をついて、黙って前を向いている、錘のような彼の強い目。前に出て積極的に発言するような子ではないのに、この教室で彼は一目置かれているような独特の存在感があった。

「うん、わかるよ。宮くんね……」

 大勢の生徒たちに話しかけている最中に、まるで一対一のような目で見返され、昨日の美術の授業のことを反芻せずにはいられなかった。群れからはずれてひとり絵を描いていた彼に、わたしはなにげなく声をかけたのだ。彼は真昼の空を、控えめな淡青で塗りつぶしていた。何かよからぬことを言ってしまったのではないか、描き途中だった絵に手を入れて、悪いことをしてしまったのではないか。そんなことが気にかかった。あのときも、そうだ、彼と目が合った。偶然の袖の擦りあいのようなものだと片づけてしまうには、少し重たいような気のする、密度の高い視線がすぐそばで触れて。

「宮くんかっこええと思わん?」
「ええ、」
「女子にはちょっとそっけないけどお、バカ騒ぎとかせんしい、背ぇ高いしい、顔ちっさいしい、イケメンやしい」
「基本、見た目やな」
「うっさいわ」
「てかなあ、向こうの宮くん、一年の帰国子女とつきおうとるらしいで」
「えー! あの、モデルさんみたいなコやあ」
「そっちは部活で手一杯ちゃうやんな」

 ぎゃはは、と彼女たちが世界の中心でおおらかに笑う。途中からなんの話をしているのか着いてゆけなくなってしまったけれど、とにかく彼が女の子たちの色めく関心事なのだということは理解もできたし納得もできた。ひとつクラスがあれば必ず、目立つ子と目立たない子がいるものだけど、彼の存在は目立っているというよりも、際立っているといった趣があった。たかだか数日間この教室を見渡しているだけでも案外いろいろなことが分かる。みんな、半径五メートルに張り巡らせた糸を巧妙に隠しているけれど、その潔癖も窮屈も、わたしにはとても眩しいものだったから、どんなに細く透明な糸だってきらきらと光を受けているように見えるのだった。はかないようでいて頑丈で、うっかりしていると自分自身を絡めとってしまう厄介な蜘蛛の巣。
 ――それはまだ、二人が「先生」と「宮くん」だったころのこと。



 夏の入り口に二年付き合っていた恋人と別れ、ひとりきりの生活に慣れてしまう前に、治くんはなんとも荒々しい手つきでわたしの孤独をさらっていった。「わかってへん」と声を絞りだした、あのときの彼の眉毛の悩ましさが忘れられない。そのまま張りつめた瞳がほどけて水浸しになってしまうのかと思った。夕立のように肌を包む、避けがたい雨の気配。乾いた砂のお城になっていたあの部屋を、彼は一撃で崩して、未練と拒絶のいりまじった痛みの輪郭を溶かしてしまった。彼の痛みが、わたしの痛みをぼかしたのだ。
 ずっと自分ばかり傷ついていたと思っていたわたしに、彼はあんなふうに無警戒に、思いがけず傷ついてくれた。そんなことを六歳も年下の男の子にほだされてしまう理由にするのだから、わたしはやっぱりまだ、半人前にもなれていない。
 あの日、治くんを部屋に招いたことを、わたしはまだ心の底から「よかった」とは思えないでいる。
 半年以上の時を経て、久しぶりに戻ってきたこの場所で、そのうしろめたさにあらためて気づかされた。彼は、わたしがとっくに締め出されてしまった世界で毎日、毎日、息を吸って吐いているのだ。

ちゃんこれなあに?」

 一月の終わりの寒々しい廊下にわざわざ足を止め、彼女たちはわたしが掲示板に貼らせてもらっていたポスターを覗きこんだ。ああ、嬉しいな、と胸の奥に朗らかな日だまりが滲む。わたしを覚えていてくれたことも、「ちゃん」と呼んでくれたことも、「久しぶり」と駆け寄ってきてくれたことも、ポスターに興味を持ってくれたことも、ぜんぶ、ちゃんと嬉しい。クロッキー帳に挟んでおいたチラシを二枚抜きとって、彼女たちに手渡す。そこにはポスターと同じだけの情報をコンパクトに載せてあった。

「グループ展と言ってね、こんど、大学の仲間と一緒に作品の展示会をするの」
「え、ちゃんの絵が見られるん?」
「そうだよ。お金とらないし、もし興味のある子がいたらどうかなって」
「えー行きたい、行きたい。ね、行かへん?」
「あんた大学生と知り合いたいだけちゃう」
「それもあるけどお」

 夏服を着ていたころと同じように彼女たちはぎゃはは、と無敵の笑い声を廊下に響かせた。
 教育実習の折にお世話になった美術科の先生から連絡があったのは一週間前のことだった。年末から年明けにかけて何年かぶりに美術室の大掃除をして、余りの画材がずいぶんとあったから、もし入り用だったら引き取りに来ないかという話だった。ゆかりのある卒業生や、実習生にはみな声をかけていたらしく、ばたばたしていて出遅れたわたしにはほとんど何も残されていなかったけれど、こうしてグループ展のポスターを貼りだす承諾を得ることはできた。それから、売れ残っていた新品の水彩筆が数本という、ささやかな収穫と。
 購買の肉まんがなくなっちゃう、と言いながら駆けてゆく二人の背中を見送って、コートのポケットからスマートフォンを引っ張りだす。ついさっき着信を伝えて一瞬だけ震えていた。四限の授業がすすんでいるころに送ったメッセージの返事が、ようやく、届いたのだろう。

〈今日、お昼ごろ稲高に行くよ〉
〈なんで?いまどこ?〉

 文字の向こうから治くんの驚いた様子が伝わってくる。いまどこ、と尋ねられて初めて、予期せぬためらいが頭のすみっこを翳らせた。年が明けて治くんと会ったのはもうだいぶ前のことだから、わたしだってそろそろ治くんの顔が恋しいし、彼も同じように恋しく思ってくれているのだろうと思う。だけど、そんな気持ちを抱えてこの場所でひと目でも彼と会ってしまうのは、わたしにはあまりタイミングの良い逢瀬には思えなかった。胸のみなもがさざ波立っている。こんなことを彼に知らせるなんて、軽率だっただろうか。
 ひらいてしまったメッセージを無視することもできず、指先をどう動かそうかと思案していると、突然、誰かに背中を突き飛ばされてわたしは腕のなかのものをすべて落としてしまった。スマートフォンも、束ねていた水彩筆も、クロッキー帳も、そこに挟んでいたチラシやメモのたぐいも、ぼうっとしていたぶんだけ、盛大に。

「わ、っ」
「うおあ、ごめんなさい」

 わたしの背中を越えて、ひとりの男子生徒がつまずいてよろめく。即座に彼が振り返ったとき、わたしとその子はおそらく、まったく別の意味で目をまるくみひらいた。彼はわたしが不注意でぶちまけてしまったものたちの惨状を目の当たりにして、そしてわたしは、わたしのほうは。

「やば、すみません。拾うの手伝います」
「……治、くん?」
「……えっ、治?」
「あつむ!」

 膝を折って廊下にひろがったメモ用紙の数枚を拾おうとしてくれていた彼が、ふわりと顔を上げる。治くん、というわたしの頼りない呼びかけから、わたしの肩越し、あつむ、と呼びかけられたほうへとすぐに彼の視線は流れた。はっとして、わたしもすぐにその場にしゃがみこみ、転がっていたスマートフォンを手もとに引き寄せる。考えはなく、とっさのこと。去年の八月、神戸の水族館で買ったイルカのストラップを、手のなかにそっと隠しこむように。
 治くんじゃ、ない。
 頭のなかには、ずっと忘れていた生徒たちとの会話の断片が、急に鮮やかな色を纏って立ち上がってきていた。あのときはわけもわからず、そのぶん、なにごともなく聞き流していた教室でのたわいないお喋りが、すとんと腑に落ちる。解ってしまう。
 ――彼こそが間違いなく、女の子たちの噂話に棲む、もうひとりの「宮くん」なのだと。

「あーあーお前何してん……俺ら先に場所とっとくからな」
「すんませーん、こいつがやらかして」

 履きつぶされた大きな二足の上履きが、どたどたと慌ただしくわたしたちを通り過ぎてゆく。おう、としゃがんだまま友人たちの声に応える彼の横顔を、わたしはそのとき、憑りつかれたようにじっと見つめていた。
 似ているというより、似てはいないけど、同じだ。それが正直な、彼に対する奇妙な印象だった。同じかたちの眉根がひりっと動いて、目の前の彼がわたしの視線に気がつく。その視線はわたしに、不用意な宛て名違いを十二分に後悔させた。自分のあやまちに思い至り、次いでどうにかこの場をしのがなければ、とりつくろわなければという焦りに襲われる。あいまいに目を逸らし、散らばったチラシを両手でかき集めながら。

「あ……ええと、ごめんなさい。前に受け持っていたクラスの子と勘違いしちゃって。わたし、ここに教育実習で来てたの。一学期のことだから覚えてないと思うけど……」
「――もしかして美術の先生?」

 心臓がまるで何かの罪を暴かれたかのように凍てつく。間違いを犯したわたしとはうらはらに、彼は突然、不気味なほど的確な指名をしてのけた。なめらかで、やや掠れた抜けのある低い声。そんなところも、やっぱり同じ。その声に「先生」とよそよそしく呼ばれたのは久しぶりだった。
 おそるおそる顔を上げると、彼はわたしの落としたクロッキー帳を手に持っていた。赤い厚紙でできた表紙のすみを指先でさすっている。そのクロッキー帳は友人たちから誕生日にもらったもので、表紙にはローマ字でわたしの名前が箔押しされてあった。それがからくり。どうやら彼はそれを目ざとく見つけて、いま、わたしの名前を知ったらしい。クロッキー帳を差しだしながら、目を合わせ、彼はわたしにひとなつこく笑いかけた。ようやく、似てもいないし、同じでもない表情に出くわして、胸が安らかに鼓動を打ちはじめる。それから、月並みな緊張で喉がつかえた。初めて出逢う、この美しい男の子に対して。

「なんてえ。すみません俺、音楽選択やったから」
「……そう」
「美術って毎回大変そうやないですか。準備も片づけもあって、ずーっと作業してたら気ぃも張るし」

 人好きのする笑顔で、感じのいい目と眉の動かし方をするけれど、他人におもねるようなところのない、彼はきっぱりとした話し方をする子だった。差しだされたクロッキー帳を受けとって、ばらばらになったメモ用紙や、ふせんをいちどに挟みこむ。様々に描きこんだ無数のスケッチのなかに潜んでいる、恋人の寝顔や、指や手のかたどり、唇の薄い膨らみ、喉仏のかたち……。わたしは何か、とても大事な二人のひみつを、軽々しく落としてしまったような気がした。

「一緒に拾ってくれてありがとう。……じゃあ、あの」

 嵐のような偶然に薙ぎ落とされ、拾いあげてもらったひみつを、二度とこぼさないよう胸に仕舞ってわたしは彼よりも先に立ち上がった。ほとんど、彼の話を途中で遮ってしまうよなやり口だった。コートのポケットのなかでまた、堪え性のないスマートフォンが震えている。ついさっきまで気まずさを感じて逡巡していたワンコールも、今のわたしにはこの場を今すぐ離れるための、かっこうの呼びだし音になる。
 おざなりな小さな会釈をして、わたしはきびすを返した。迷路のようなよそよそしい校舎を、出口ではなくより奥まったほうへ、まるで彼から逃れるように。



さん」

 複雑なつくりをした校舎には抜け道や死角もまた、多い。手短なメッセージで呼びだされた当の場所がどこなのかはっきり分からずに、北館のしんとした廊下を歩いていたとき、通り過ぎようとしていた教室のなかからわたしを呼ぶ声がした。ちゃんと振り返る間もなく、ずいぶんなちからで片腕を引っ張られる。わたしを背中から抱きこみ、治くんは素早くぴしゃりとドアを閉めた。名前をもたない空き教室ばかりで迷ってしまいそうだったけど、ここがどうやら、彼の教えてくれた「北館3階のかどっこの準備室」だったらしい。

「……治くん、びっくりした」
「こっちのセリフや……なんでおるん。びびるわ」

 どこか切迫したものを告げる声が、冷えたえりあしに心音のように注がれてゆく。局所的に与えられた温もりが、肌と血をつうじて全身へと染みわたる。たしかに、先にメッセージを送ったわたしにも少なからず彼を驚かせたいなという気持ちはあったのだけど、今日に限ってはそれははっきりとわたしのセリフだと思った。重たい腕のちからが緩んだすきに、振り返りざまに彼をうんと見上げる。すると、治くんはわたしのセーターの襟口に指先をひっかけ、曲げた指の関節でわたしの喉仏をさりげなくなぞりあげた。なんというか、達者で、十七歳らしくない触れ方だと思った。べつに気持ちいいとかじゃ、ないんだけれど。
 近づいてきた顔を遠ざけようと、彼の胸を押し返す。もつれているうち、左肩からするりと画材入れのずた袋が足もとに落ちた。クロッキー帳も、水彩筆も。タイツにスリッパ履きの寒々しい足の先は踏ん張りがきかなくて、わたしは彼を突っぱねながらも、彼にすがっていないと尻もちをつきそうだった。

「待って」
「犬やないです」
「待て、じゃあなくてっ。暗いからちゃんと顔見せて」

 ちゃんとて、また大げさな……。そう、ぶつくさと言いながらも、治くんはもうひといき腕のちからを弱めてくれた。
 物置きのような空き教室の蛍光灯はひとつもついていなかった。窓はバリケードのように積まれた机や荷物のせいで、ほとんど採光の役目を果たせていないようだ。それでも、彼の頬に指をすべらせたり、手の甲を押しつけたりして、彼の顔を確かめる。二週間ぶりの治くんの顔。彫りの深い目のかたち。気難しい眉のかたち。乾いた唇の薄色、肌のきめ。少し乱れた髪の毛。それらすべてを並べた、ひとつの意味。たったひとつの、意味。

(さっきあなたと同じ顔をした男の子に会ったよ)

 見つめ合いながら、そう言おうとしてやめた。とても他人の空似とは思えない顔立ちだったけれど、もしかしたらわたしの見間違いかもしれないし、見間違いではないとしても、治くん本人がわたしに言わないことだ。こちらから、軽く口にしていいことなのか分からなかった。
 彼の家族やきょうだいのことを、はっきりと尋ねたことも、聞かされたことも、思えばほとんどなかったかもしれない。治くんはどちらかといえば無口なほうで、自分の内側に深く潜られることを避けるように、わたしの内側を行き止まりまで掘り当ててしまうことも恐れているふしがあった。分からないでもない。六歳離れた異性に対する、適切な臆病さというものを、きっと二人とも大なり小なり飼い馴らしているのだろう。わたしのほうがそういう感情を着飾ることに多少うわてなだけで。
 治くんとこういうふうになって、半年とちょっとの月日が経った。毎日、同じ教室に居られるクラスメイトでもなければ、となりの家に生まれた運命的な幼なじみというわけにもいかない。月に数回、会って、車で少しの遠出をしたり、映画を観たり、沈黙と雑談を等分して、食事をし、飽きもせず抱きあう。それだけのこと。二人のこと。どうやらわたしはまだ、彼のことを全然知らないままでいる。彼の深みを、全然覗けないでいる。鏡面に映したようなもうひとりの男の子に、思いがけず自分の無知を突きつけられた。

「……っ、ふふ」
「ちょお、なんで笑うんですか。俺の顔見て」
「だって治くんが」

 何が可笑しいのか、何も可笑しいことはないはずなのに、二人してくすくすと笑う。そうして、睨めっこをしていたのなら引き分けだなんてばかなことを思いながら、わたしはようやく彼の望む距離を彼に許した。皮膚の隔たりをなくしてしまうような瞬間には、ほんとうは、皮膚の上に乗っているものの委細なんてどうでもよくなっている。そういうとき、泣きたくなる。埃っぽい冷たい床に転がりながら、色々な角度で襲ってくる唇と舌を迎え入れたり、剥がしたり、その反動でまた激しくひっつきあったりして、二人とひとつを行き来するのは愉しくて切ない。コートの内側に、治くんの大きな手。わたしもみずみずしい性欲に誘われるように、彼のカーディガンの裾から、指を入れた。
 ジリジリジリ、と刻限を告げるベルが鳴る。あっけなくて、無機質な音。構わずに淡い行為を重ねる治くんの背中を、わたしは大型犬のしつけのようにさすってあげた。

「これ、予鈴じゃないの?」
「……次、自習やった気ぃする」
「自習も授業でしょ」

 肩にうずめられていた小さい頭を小突くと、治くんは不服そうに上体を起こしてから、はああ、と温かくてみずっぽい溜め息をついた。短い昼休みをさらに細切れにしたような時間では満足のゆくことなど何もない。だけど、治くんの目はどこかすっきりと澄んでいるようにも見えた。薄暗いこんな場所でも、雨上がりの芝生みたいに光の粒を溜めている。生気がある。服を整え、くずした正座で治くんと向き合いながら、二週間ぶりの彼をもういちど目に焼きつけた。だってきっと次に会うときは、また違う彼になっているだろうから。

「治くん、やっと元気になったね」
「元気?」
「なんか心ここにあらずだったから、こないだ会ったとき」
「それはないわ」
「あるよお」
「……さんとおって、そんなもったいないことせえへんし」

 なんとも高校生らしいきざな台詞を呟いて、治くんは伏せた目をわたしに合わせなおした。そうかなあ。もったいないことだらけだ、若ければ、若いほど、きっと。何かにのめりこめるということ、何かをおろそかにできるということ。もうわたしには払いきれない、美しい浪費。
 ほら急いで、と促すと治くんはしぶしぶ立ち上がって、制服の上から膝をはたいた。ドアに手をかけ、名残り惜しそうに振り向く。ここを立ち去りがたい気持ちはわたしにもよく分かった。十分かそこらのことだからこそ、離れればすぐに、消えてしまいそうで。

「新人戦終わったら、ちゃんと会うてくださいよ」
「はいはい」
「はいはい言うなし」

 格好つけたくせに、最後には格好のつかない言葉を吐いて、治くんはわたしを置いて教室を出て行った。乱暴に閉ざされたドアの、甘くなったすきまから、廊下の冷たい風が入りこんでくる。ちょうどいい、治くんの体温で、寒さを忘れていたところだから。十七歳の牙城に引きずりこまれ、十七歳に倣って呼吸することのまっとうな痛みを、どうかそのすきま風がわたしに刻んでくれたらいい。









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2018.1