Ⅲ 無敵 - 2




 綿をちぎったようないびつな雪があとからあとから降ってくるのを、しばらく無心になって眺めていた。洗面所の鏡から目を離して、そのとなりの細長い小さな窓の向こうを見つめる。この街がようやく雪の薄化粧にいろどられるころ、こよみの冬はもう峠を越えかけていて、まっしろに曇る空の向こうにはすでに春の予告が滲んでいるように思えた。少し手を洗うだけで、まだこんなにも指先が冷たくなるのに、だ。
 、と大きなノックの音とともに名前を呼ばれて、我に返る。洗面所の外でわたしを待っていたのは同期の友人だった。学部のころからよく見知った仲で、はじめに今回のグループ展の企画を立ち上げてくれたのも彼女だった。この画廊は、彼女の叔父の持ちものなのだという。

「あんたに会いたいって子が来てくれとるよ。受けつけ行ったら?」
「ほんとうに? 誰だろう」
「そ・れ・が、めーっちゃイケメンくん。ほら、教育実習であんたが受け持った子ちゃう? やるやん、

 浮かれた彼女の言葉にいろいろな意味で驚いて、洗面所を飛びだす。今週のあたまに、教育実習先だった稲荷崎高校に行ってグループ展のポスターを貼らせてもらったのは、まだたった三日前のことだ。あのとき、治くんと会ってしまった。隠していたわけではないにせよ、へたをすればわたしよりも忙しく縛られた毎日を送っている彼に、面と向かってグループ展に来てほしいなどと言った覚えはない。それに、わたしはきっと心のどこかで、彼がここに来てしまうことを恐れていた。
 ひともまばらな二階フロアを突っ切って、吹き抜けの手すりから身を乗りだし、階下を見おろす。やっぱりそうだ、と思う。予感が的中した安堵ではなく、緊張におかされてしまう自分が、いやだ。背の高い男の子がひとり、受けつけの壁にもたれている。白いギャラリーに浮かぶその制服も、ざっくりとしたケーブル編みのマフラーにうずまる、短く刈り上げたツーブロックの髪型も、わたしにはひどく見慣れた姿かたちだった。

「治くん、」

 一階へとくだっていく段差ひとつひとつがもどかしく感じられ、短いらせん階段の中途から思わず彼の名前を呼んだ。だけどそれがとんでもない早とちりだったことを、わたしはすぐに思い知らされることになる。顔半分が隠れてしまうようなマスクをしていても、目が合えば二人の距離はまったくの別ものだった。目に見えるものだけでは追いつかない微細な違いを、ひとは一体どうやって感じとっているのだろう。それぞれの、唯一無二のコネクション。視線がまじわる一瞬、雷光が天と地をつなぐように、二人は同じ過去を通して結ばれる。

「まーた、間違えとる」

 ぶつかった目のきわが静かに撓み、彼はわたしをからかうような、少し咎めるような口ぶりでそう言った。二日前の自分の失態が瞬時に思いだされる。相似の後ろ姿を見て、たったひとりのひとの名前を呼んでしまった、あのとき。顔から火が出るというより、心臓が凍るような思いをした。誰に対する恥ずかしさでもない、自分で自分の内奥を暴いてしまったような気まずさのせいで。

「ごめんなさい、わたしてっきり、」
「ええですよ、慣れてますから。俺、治やなくて、あつむです。みやあつむ。双子なんです、俺たち」

 彼は、口もとを覆っていたマスクを剥ぎとりながら自己紹介を済ませると、すぐにまたマスクをつけ直した。鼻筋の高さ、彫りの深い目もと、近づいたときの背の感じや体格も、同じだ。たった一度、肩と肩がぶつかって、たった一度、言葉をかわしただけの間柄。それは、どう見積もっても他人の関係だろうに、ずっと前から妙な縁がありえたような感覚が胸を衝いた。

「それで、み……やくんは、どうしてこんなところに」
「はいこれ」

 コートのポケットから宮くんが取りだしたのは、猫のキーホルダーがついた鍵だった。まるでおもちゃの宝石箱の鍵のような簡素で、心もとない古い鍵。ひと目で自分のものだということが分かる。それは、仲間内のみんなで共有しているアトリエの合鍵だった。アトリエといっても友人の家が持っている空き倉庫を格好良くそう呼んでいるだけで、夏は暑くて冬は寒い、出入り自由の作業場のようなものだ。あれから使う機会がなくて気づいてもなかったけれど、あのとき慌ててしゃがんだせいで、巻きスカートのポケットからこぼれ落ちてしまっていたらしい。

「こないだぶつかったとき、落としてったでしょ。ここ来たら直接返せるんかなと思って」

 あそこで、ポスター貼ってあったの見たんです、と宮くんは続ける。シャム猫のチャームを手のひらに受けとりながら、わたしにはまだ、彼がここに来たほんとうの理由がつかめていないような気がした。

「ありがとう……わざわざこんなところまで」
「近くまで来たんで。会えてよかったです」

 濃くも淡くもない自然な口調でそう言い、彼は目をじんわり細めた。同じかたちのパーツを同じ配置で乗せた、同じ造形の顔をしていても、彼らはその使い方とあしらい方にかんして、ずいぶんと異なっているように思う。ほとんど初対面のわたしにひとなつこい笑みを向ける彼は、わたしと治くんのことを、どのくらい知っているのだろうか。わたしは治くんに双子のきょうだいがいるなんて知らなかったけれど、治くんはわたしのことを彼にたくさん伝えていたかもしれない。それを思うと、どういう距離感で彼と接したらいいのか分からなかった。ただ、少なくとも誰だって、二週間受け持っただけの生徒のことを下の名前で呼ぶような元教育実習生は、おかしいと思うはずだ。
 宮くんが左肩にかけていた黒のエナメルリュックは、部活帰りの治くんがよく背負っているものと同じだった。ポケットの部分に「稲荷崎高校バレーボール部」という白い筆文字のプリントが入っていて、部で揃いのものだということが分かる。つまり、彼と治くんは家族であり、チームメイトだ。

「……宮くんって、もしかしてその、バレーやってるの?」
「え、はい」
「今日、部活動は? ……けっこう大変なんだよね?」

 探るようにわたしがそう尋ねると、彼はマスクの口もとを少しつまみ、ふっと息を抜くようにして笑った。治くんの部活のことだと思えば「大変なんだよね」なんて他人行儀な訊き方だったけれど、彼にしてみればほぼ初対面のような相手から、むしろ踏み入った質問に聞こえたのかもしれない。

「ああ俺、早引けさせられたんですよ今日。風邪気味で」
「えっ」

 ここから五分ほど歩いたところに大学病院がある。近所のかかりつけの内科の医院が休診だったので足を延ばしたのだというようなことを、彼はわたしに教えてくれた。

「新人戦前やからって、神経質すぎますよね。すこおし咳こんどっただけですよ」
「でも……大丈夫?」
「すぐ帰ります。けど、せっかくやし先生の絵は見てこかな」
「あ、ちょっと」

 そう言うと、宮くんはわたしの横を通り過ぎてさっさとひとりで歩きだした。あのときも思ったけれど、彼はどこか自由奔放で、何にも臆するところのない男の子のように映る。物言いも物腰もきっぱりとしているのに、それでいてつかみどころのない、つかもうと思えば不敵にすり抜けていってしまいそうな気ままさを、彼は存分に持て余している。
 ふと吹き抜けを見上げると、彼の来訪を知らせてくれた友人が意味ありげな含み笑いをしてわたしを見おろしていた。しっし、と好奇の目を追っ払うように、二階に向けて手の甲を振る。それから、わたしは仕方なく、突き進んでゆく宮くんの背中を小走りに追いかけた。
 あまり、熱心に鑑賞しているとは言えないスピードで、彼はギャラリーを壁に沿って左回りに歩いていった。彼が見ているのは展示作品ではなく、作成者の名前をしるしたプレートのようである。もしかしなくとも、わたしの名前を探しているのだろう。あの日、クロッキー帳に刻まれたローマ字綴りを見つけた、あの目ざとさで。一階の片隅、真っ白な壁を一面つかった展示の前で、彼はようやく足を止めた。五十センチ角の水彩画が五枚、等間隔で並べてある。わたしの描いた五枚。同じかたちの、正方形の小さな世界に、違う色で染めあげた五つのたましいをこめた。いわばこの子たちは、わたしの胎から生まれた五つ子だ。

「……かっこええ」

 壁から一メートルほど距離をとって、宮くんはマスクの奥でそうつぶやいた。一緒になって、立ち止まる。わたしは、彼からこぼれたその言葉よりも、目をまるくして前のめりになっている彼の横顔のほうに興味を惹かれていた。大きなマスクをしていても精巧なつくりは隠しきれない。こんなにみずみずしい気持ちで彼の表情を観察しているなんて、もしかするとわたしはあまり、治くんの横顔をじっくり見たことがなかったのかもしれないと思う。思えば彼はわたしの前でよそ見をしない。二人の関係のなかで、わたしは見つめることより、見つめられることのほうがずっと多い。車の助手席に彼を乗せているときでさえ、ときどき治くんは景色よりも、わたしを眺めているのではないかと感じることがある。熱くて、絶え間ない、ひたむきな圧力。無防備な表情をさらしてくれるのは、情事のあとの浅い眠りに落ちているときぐらいのものだ。

「先生の描いた絵、これでぜんぶ?」

 腕をひろげて、彼は斜め後ろにいたわたしをぐるりと振り返った。ついさっきまでどこかだるそうにまたたいていた大きな目が、いまや生き生きとかがやいて、わたしは初めて彼のことをかわいらしいなと思った。

「先生って、わたしのこと?」
「変ですか」
「そりゃあ。わたし、きみに何も教えてないから」
「じゃあ、さんて呼ぼかな」
「……うーん」
「ええでしょ。俺も宮くんはくすぐったいし」
「あつむくん?」
「そーそれそれ」
「どんな字を書くの」
「俺はたすけるひと、治はおさめるひと」

 まるで歌うように軽やかに、彼が自分の名前について教えてくれたのはそれだけのことだった。彼はたすけるひと、治くんはおさめるひと。無教養なわたしにはすぐには理解できなかったけれど、ほどなくして、彼の「あつむ」の響きには「侑」という一文字を充てるのだということを知った。あつむくん。侑くん。それが彼の正しい名前。
 侑くんはしばらくわたしの絵の前をじゅんぐり行ったり来たりしながら、黙ってひとつなぎの作品と睨めっこしていた。平日の午後の、ほとんど無人の画廊は静かで、彼のローファーが床を鳴らす音だけが心地よく天井に響いていた。どうやって描いたんですかとか、どういう意味があるんですかとか、何も訊いてきたりはしなかったけれど、美術は片づけが面倒だとかなんとか元も子もないことを言っていた彼にしてみれば、それはきっと真摯な沈黙だったのだろう。

「そろそろ帰ります」

 満足したように彼が目を伏せたのは、遠くからかすかに午後五時の鐘が聞こえてきて、しばらく経ったころだった。痰が絡んでいるようなあまりよくない咳をしながら、侑くんがスマートフォンを確認している。それは治くんと色違いの、同じ機種のものだった。

「外、寒いでしょう。近くまで車で送っていこうか」
「え、ほんまに? 店番ええの?」
「うん。上にもうひとりいるし、それぐらいのお礼はさせてほしいな。車ももうちょっとしたら……」

 受けつけに引き返しながら侑くんと話していると、ちょうど画廊の扉がひらいて、ひゅ、っと冷たい風が首筋を抜けた。寒さのせいではなく、肌が粟立つ。ぶあついダウンコートを脇に抱えて画廊に入ってきたそのひとは、わたしより先にわたしのとなりにいた侑くんに視線を合わせたような気がした。火打石が擦れるように、不穏な摩擦をもって二人の目と目がひとときまじわる。

「あれ、どうしたん。そっちの子は?」

 奇妙な鉢合わせのせいでよどんだ時間は、急にはうまく流れない。部活が忙しそうだからとか、まっとうな理由はきっと自分をもごまかす建前で、治くんをここに呼びにくかったのは何より目の前の彼のことを念頭においてのことだった。わたしは、わたしのもとを去った彼の不在を、あの部屋を訪れた治くんの存在で埋めたのだ。何もやましいことはないはずなのに、どうしてわたしは、それを思うとうしろめたい気持ちになるのだろう。

「あ……うん。教育実習に行った高校の生徒さん。興味があってわざわざ見に来てくれたみたいで」
「そうなんです。さんに興味があって」
「っ、ちょっと宮くん」

 ぎょっとして見上げると、わたしはまた、彼の横顔とぶつかった。いつのまにか耳にかけたまま口からマスクを剥ぎとっている。整った顔には隙がなくて、ただ笑っているだけでもどこか冷たい印象を見る者に与えた。

「……えっと、それで彼、熱っぽいみたいだから家まで送ってこうと思って。だから、車のキー返してもらっていい?」
「それはええけど……」
「ありがとう。すぐに戻ってくるから。じゃあ行こう、宮くん」
「はーい」

 そそくさと車のキーを受けとると、わたしは侑くんの背中をやんわりと押して、逃げるように画廊を出た。ほとんど雨のようになりながらも、雪はまだやまない。積もることのないかよわい雪のなごりが、石畳をすっかり青黒い夜空の色に変えてしまっている。



「さっきの、彼氏ですか?」

 ついさっきまでエンジンのかかっていた車内はヒーターでしっかりと暖まっていた。侑くんの見ている前で大いにためらいはあったけれど、かといって「家はどのあたり?」などと白々しいことを訊く勇気もまるでない。仕方なく、いつものようにカーナビに登録してある「目的地」をタップして呼びだした。治くんの家はもちろん彼の家でもあるだろう。わたしの指の動きを見て、助手席で、侑くんは何も言わなかった。きっとそれこそ今さら、白々しい「気づき」になる。だけど、そこまで心得ていたとしてもこういう質問を軽くしてのけるのだから、彼はなかなか意地悪だ。

「……どうしてきみたちはすぐ、そういうこと訊くのかな」
「だーって気になるんやもん。あ、黙秘権つこてもええですよ」
「大学の同期ってだけです」
「ですよね。高校生に敵意向ける男なんて、ださいわ」

 思いもよらない言葉がぽんと投げこまれて、油断していた心が跳ねる。予定調和を知らない、そのつどの言葉というのは、こんなにも生々しい。あんなささいな会話のなかでも、彼は彼なりの地図を描いて、わたしを、あのひとを、自分を基点とした独特の方位に位置づけてしまえるらしい。先に敵意を向けていたのはどちらかというと侑くんだったような気もしたけれど、はたして。

「じゃあ、わたしもひとつ、『そういうこと』訊いてもいいかな」

 黄色信号を見とめて、余裕をもってブレーキを踏む。黙秘権をつかってもいいけれど、と前置きを真似ると、侑くんは愉快そうに目を上げた。

「どうぞ」
「きみはわたしのことを知っていたの。ずっと前から」

 はじめから感じていた。彼はたいして知りもしない相手の落とし物をわざわざ自分から出向いて届けてくれるような「お人好し」には、どうしても見えなかった。彼はきっと、もっとしたたかで、もっとたくましい。けれど、侑くんは眉毛のきわを指のはらでこすりながら、首を曖昧にかしげた。

「さあ、どやろ。また大会とかで声かけてきた他校の子と、仲良うしてんのかなぐらいに思ってましたけど。あいつすぐ抜け駆けしよるし」

 一定の間隔で水滴を払うワイパーの音に絡まって、侑くんの声がみぞれみたいに溶けたり、だまになったりしながら、胸のなかに流れ落ちてくる。少し、怒っているような、拗ねているようなそっけない口ぶりは、治くんのよくする淡泊な喋り方と似ているようでまるで似ていない。「また」とか「すぐ」という言葉があらわす、侑くんがおそらく今まで見続けてきたであろう治くんの人間関係のあしらいと機微のようなものが、わたしには新鮮で、意外でもあった。

「けど、こないださんとぶつかったとき、わかったんです。このひと、治がずうっと隠してたひとやって。あの鍵、二日も持っててすみません。治に渡してまうのも癪で」

 今日の天気だとか昨日のテレビ番組だとか、そういう身近で退屈な話題と同じようななめらかさで侑くんは話し続けた。癪だという、独特の感情が雪解けの水のように、あまりにもするりと気兼ねなく心に入ってくるのは、彼の話し口がとても軽いからだ。
 信号が青に変わり、歩行者が通り過ぎるのを待ってハンドルを切る。住宅地に入ってしまえば、いつも治くんのことを拾ったり降ろしたりする公園はもうすぐそこだった。普通電車で四駅、車を出せば十五分ていどの道のりでしかない。暗い夜道を徐行しながら、いつもの通りをいつもの車で、同じ顔をした、まったく別の男の子を送り届けていることを、ふと不気味に思った。

「こういうことは、そんなに、ぺらぺらとひとに話すようなことじゃないと思うけど……」
「ちゃうよ、さん。あいつはそんなできてへんよ」

 不敵な笑みの滴る声で、侑くんはわたしの言葉を堂々と遮る。わたしも、彼も、二人は互いに、互いが、治くんにとってのトップシークレットだったのかもしれない。それを思うと、となりにいる彼は、ひとりの男の子でありながらそのまま治くんの一部でもあるような気がしてくる。治くんがひみつにしたかったのは、侑くんの存在そのものというよりも、侑くんのなかに隠している自分自身のことだったのではないか。本人さえ隠したことを忘れてしまうほど、近くて遠い、彼は治くんのひみつ基地なのだ。きょうだいってきっと、多かれ少なかれそういうものだろう。
 ――それなら、治くんにとってわたしは。

さんって案外、治のことなんにも知らんのな」

 侑くんの大人しかった指先がおもむろに座席を区切っているコンソールに伸びる。そこには充電器につながれたわたしのスマートフォンが置いてあった。指の第一関節にストラップの輪を引っかけて、いわくありげに侑くんが片眉を動かす。生まれ落ちる前から「お揃い」を知っている彼にとって、こんな安物のペアストラップは可笑しなままごと遊びにでも思えるのかもしれない。
 一瞬、片手をハンドルから離して、わたしは彼のいたずらを牽制するように充電用のケーブルに手を遣った。シーソーみたいに、侑くんの指がストラップからひょっと離れてゆく。

「あ、すみません。偉そうなこと言うて」
「そうだね、だいぶ偉そうだった」
「怒りました?」
「ううん。ほんとうのことだから……なんて認めるのも、さみしいけど」

 独り言のような声の端は、車の走行音に溶けてしまった。ウィンカーを点滅させ、いつもの公園をわざと通り過ぎ、あとひとつかどを曲がれば彼の家という路肩に車を停める。いやな咳をこぼさぬようマスクをし続けている彼が、少しでもはやく暖かな家のなかに引っこめるようにと。

「今日はうれしかったよ、あんなに熱心に絵を見てくれて。わたし、治くんの横顔って見たことないんだ」

 わたしと二人でいるとき、わたしではないものに気をとられている治くんの姿を、わたしは想像できない。わたしの絵は、彼にとってわたしの延長ではない。あるいはわたしの延長線上にあるものになど、はなから興味はないのかもしれない。それはとても幸福で、一途な恋の証明なのかもしれないが、月が裏側を見せないように、きっとわたしに許されているのはまだ彼の一面に過ぎないのだ。
 初めて治くんを部屋にあげた日のことを思いだす。強く強く、ぎりぎりと歯を食いしばるように、虫眼鏡で陽を集めるように、彼がわたしを見つめていたこと。かすかな涙が視界を揺らがせ、水底から明るいみなもを見上げるたどたどしさで、わたしは彼を見つめ返した。
 横顔のない世界。
 わたしはあれからずっと、身動きもとれず、彼の瞳のなかにいる。









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2018.2