Ⅳ オルタナ・ボーイフレンド




 丹念に時間をかけて準備してきた一週間のグループ展が終わった。
 文化祭だとか、学芸会だとか、今まで何度こんな「祭り」の感慨を覚えたか知れないけれど、こういう行事は、いつも始まってしまえばあっという間に終わるものだった。
 最終日の夜、展示会のメンバーが全員集まって、近くの居酒屋で軽い打ち上げがあった。車で来ていたわたしを除いて、みんな、いつもよりお酒を飲んでいた。どんどん周りの声が大きくなって、笑い声が響きわたり、それなのに話している内容は希薄でとんと耳に入ってこない。どこまでも満たされた、それでいて空っぽの愉快な飲み会のさなか、となりに座っていた友人が唐突にこんな話をしだした。

「そういえば、展示見に来てくれた高校生の男の子おったやんか。ほらあんた目当ての、宮くんって子。彼、デッサンのモデルとかやってくれへんかなあ。あの顔、もっとじっくり観察してみたいわあ」

 宮くん、その名前が、しらふの頭には縫い針のようにちくりと刺さる。口をつけようとしていたウーロン茶のジョッキを置いて、わたしは、まじまじと彼女を見つめた。酔ってはいたけれど、酔った勢いの思いつきというわけではなさそうだ。
 わたしの貼ったポスターに足を止めてくれた女の子たちは、けっきょく展示を見には来なかった。少しさみしくもあるが、そんなものだろうとも思う。だから、わたしの不注意が呼びこんだ偶然ではあるけれど、あの高校の生徒でわたしの絵を見てくれたのは侑くんただひとりだ。しかしもちろん、彼はわたしの生徒ではなく、わたしは彼に何も教えたことはない。なんというか彼は生来、「先生」という目上の人種を必要としない人間にすら思えた。彼に「先生」と呼ばれると、ことさら居心地悪く感じられたのはそのせいだ。

お願い。頼んでくれへん?」
「そんなこと言っても、連絡先知らないし」
「受けつけで記帳してもらったとき、電話番号聞いたもん」
「いつのまに……」

 それぐらい朝飯まえよ、と彼女はしたたかにからからと笑って、わたしの肩に肩を寄り添わせ、自分の「戦利品」を誇らしく見せつけた。スマートフォンの画面のなかに八ケタの番号がつらなっている。番号の上には「宮くん」とだけあり、わたしには足りない見出しだな、と思ってしまった。

「モデルなんつう退屈なバイト、受けそうなタマに見えんかったけどな」

 背後から突然、野太い声が降ってきた。あのとき、侑くんと鉢合わせたもうひとりが、コンビニで煙草を買って座敷に戻ってきたところだった。わたしたちのあいだに腕を割りこませ、他人のスマートフォンを親指と人差し指でつまみあげるようにして、遠目に眺める。無遠慮なその態度に、当のスマホの持ち主である友人が「ちょっとお」と非難めいた声をあげた。相変わらず、気を許した相手に対して彼は少々失礼だ。
 三年前の冬、二人が出会ったのも確かこんなような安い居酒屋での飲み会だった。わたしにとって恋は、人生の新しい季節だった。熱くもあり、寒くもあった。学んだことは、かたちのないものであっても、かたちを与えてしまえばいつか壊れてしまうということだ。彼はいま、目をかけてもらっていた市内のデザイン事務所と、大学とを行き来しながら、自分の創作を続けている。

、ちょっとええか。向こうで」

 近くの灰皿をもって、彼は空きグラスの溜まったテーブルの端っこを顎でしゃくった。不思議に思いながらもうなずき、ジョッキをたずさえ席を立つ。華やぐみんなの輪から少し離れて、わたしたちは壁際のすみの座布団に座りなおした。薄いタイツを履いた脚が静電気の摩擦のせいで少し痛い。煙草に火をつけ、彼はいちど煙を吐いてから、場にそぐわないまじめな面持ちで話を切りだした。

「いま話しとった子のことなんやけど」
「……宮くん?」
「ああ」

 ふくらはぎを撫でながら首をかしげるわたしに、彼はどこか、痛々しいものをでもるような目を向けた。ちょいちょい、とひみつめいた手招きをされ、さらに顔を近づける。煙草を左に持ち替えて、彼は、着ていたパーカーの右ポケットから自分のスマートフォンを取りだした。

「あのな。を傷つけるかもしれんから、今まで黙っててんけど」
「なにそれ、こわい」
「聞けって。あいつな、……あいつ、ちょっと前に俺に電話かけてきてんで。しかもお前の番号から」
「……え?」
「ほら、これ見てみ」

 そう言って、彼がわたしに突きつけたのは、スマートフォンの発着履歴のページだった。
 いきなりそんなものを見せられても、もちろん、すぐには何を言われているのか分からなかった。一月中旬の日づけと、わたしの番号からの着信マークを彼の親指が指し示している。その日、彼からの着信はあったが、わたしから電話をかけた覚えはない。というよりも、わたしは電話が苦手で、たいていのことはメールで済ませてしまうのだ。
 ――ゆっくりと思いだしてゆく。その日づけは、年が明けて初めて、治くんと会った日だった。

「年末からずうっと、展示のことで俺ら頻繁に連絡とりあってたやろ。それでなんや誤解したのか、ただの牽制なんかは知らんけど……色々と、詮索してきよったから。お前と付き合うとるって、『みや』って言うとった名前。あいつやんな?」

 急な断定にうなずくことも、こたえることもできない。わたしは心底かたまった。どこからどう理解すればいいのか分からない、異様な話だった。だけど、わたしのスマートフォンを操作できるのは、彼の思い描いている「あいつ」ではない。それだけは確かなことだった。驚きと焦りが、飲み会の浮かれた空気を蹴散らして、心臓を激しくけたたましく叩き続けた。
 あの日、ロンドンから帰ってきてまだ日も浅く、わたしは時差ぼけが完全には治っていなかった。そのせいか治くんと抱きあったあと、ベッドで、まだ陽も高いのについ深い眠りに落ちてしまったのだ。目が覚めたとき、治くんはわたしのとなりに横たわって、わたしを見つめていた。ずっと、わたしが起きるまでそうしていたのかなとぼんやり思った。いつものお返しです、と言って、寝起きの呼吸をいきなり塞がれてしまったから。恋人の寝顔をまじまじ観察したり、寝起きにいたずらを仕掛けたりするのは、「いつも」ならわたしの領分なのだ。
 あのふやけた幸せの溜まりのようだった日、治くんはほんとうに彼の言うような電話を、わたしのスマートフォンをつかってかけていたというのだろうか。わたしがすっかり眠りに落ちているうちに、わたしの知らない薄暗い声で。

「……でもそんな、詮索なんて」
「だから……なんでこんな電話かけてくんのかとか、お前と付き合うてたのかとか、挙句、まだお前に気があるんやないのかって」

 なかなか話を真に受けないでいるわたしに、当然の苛立ちだと言わんばかりに一気に彼がまくしたてる。昔の恋人の唇から懐かしい煙の匂いが漂ってきて、喉を縛るように詰まらせた。にわかには信じがたい、信じたくないような、ショッキングな告白が列をなす。考えないといけないことがごまんとあるのに、こめかみに痛みがうごめく頭では、それも今は難しい。

「……男前や言うても、あんなんガキやろ。高校生の彼氏と遊ぶのもほどほどにしときや」

 雲が流れて影を落とすように、彼の声のトーンが下がる。どうしてわたしずいぶん前に別れた恋人に説教されているのだろうと思う。悪いことをしたから? 悪いことをしたとしても。今も分かってしまう、彼が意図的にわたしを挫かせようときつい言い方をしていること。だけどけっして悪気はないものだから、睨みつけたって効果がないこと。そんなことをしたらむしろ、今度はあやすように、すっかり優しい目をしてわたしを宥めようとしてくる。彼も、変わらない。わたしがまだ、彼の低い声に、息をひそめるように。

「俺は、のこと心配して言うてんねんで。いつまでも学生気分のままじゃおれへんやろ。な?」

 ぽん、とわたしの頭に手のひらをいちど押しつけ、みんなから怪しまれる前に彼はさりげなく席を立った。言うだけ言って、勝手なタイミングで話を閉じてしまう。わたしに残されたのは、ひどく蹂躙された、あの日の記憶だけだった。
 誰にも動揺を拾われないよう、トイレに行くふりをして近くのサンダルに足をおろす。立ち上がろうとして初めて、うまく四肢のちからが入らないことに気がつき、愕然とした。認めたくないものを強要されている息苦しさで、心臓が度数の高いお酒が回ったときのようにばくばくと高鳴っている。アルコールなど一滴も摂っていないのに、こんなにたちの悪い酔いかたをしたのは、生まれて初めてだ。

 治くんの横顔をちゃんと、見てみたい。そんな生易しい願望はすっかりどこかに追いやられてしまった。
 これは、彼の裏側だ。
 十七歳の男の子の裏側は、思っていた以上に深くて、湿っていて、昏く翳っていた。でも、だったらどうして、彼は誰よりもまずわたしに、それを見せてくれないのだろう。



 青空の濃い日はいつもより空気が尖っていて顔の表面をひりひりとさせる。薄い氷を踏むようなささやかな痛みが、実はそんなに嫌いじゃない。晴れた午後二時前、駅前広場に先に到着していたのは彼のほうだった。数メートルの距離でわたしに気がつき、オリーブ色のモッズコートのポケットから出した手を振る。その手に思わず振り返してしまったわたしの手の動きはぎこちなかった。そして臆病だっただろう、とても。
 正面で足を止めると、侑くんは右に流した前髪に指をいれ、思いのほか礼儀正しく小さな会釈をした。

「開校記念日やったんですよ、今日」

 挨拶めいたものを交わす代わりに、侑くんは長い指先を擦りあわせながら、わたしにしてみれば懐かしいような休みの理由を教えてくれた。風邪はすっかり治ったという。だけど彼は、あの日と同じようにぴっちりマスクをして、きれいな顔を半分覆っていた。
 あの飲み会のあった翌日、わたしは友人に急かされ、侑くんに電話をかけた。おそるおそる、デッサンモデルのバイトに興味はないかと尋ねたら、「時給によりますね」とちゃっかりとした答えが返ってきた。ほっとして、相場を伝える。彼は通話口ごしにくすくすと笑い、「ええですよ、さんと二人でなら」とさらに予想外の返答をした。聞き覚えのある、言葉と声だった。

 駅前から少し歩いたところにある共用のアトリエに、先客はいなかった。平日の真ん中のこの時間、しかも真冬にここで作業しようとは、わたしだったら思わない。この場所を選んだのはそれを見こしてのことだ。侑くんに拾ってもらった鍵を差しこんで、埃っぽいドアをひらく。そんなに贅沢なつくりではないけれど、電気も水道もひと通りの機能は揃っていたし、何より風がしのげるだけでもこんな日は暖かく感じられた。

「そこのストーブつけてもらえるかな。わたし、お茶淹れてくるから」
「でけへん。どうすんのこれ」
「え」

 道具箱からライターを探しだそうとしていた腕をとめ、振り返る。侑くんはその場にしゃがみこんで、ブルーフレームの石油ストーブをものめずらしげに眺めていた。距離をとって遠巻きにするような、よそよそしい視線を注いでいる。どうしてだろう、と思った。同じ環境でずっと育ってきてたはずなのに、ずいぶんと反応が違うものだと驚く。適当な百円ライターを左手に握りしめ、侑くんのとなりに同じようにしゃがみこんだ。

「治くんは、おうちにあるって言ってたけどな、前に」
「ばあちゃんちやろ。治はたまに手伝っとった」
「侑くんは?」
「ぜんぜん。あいつ、ポイント稼ぎばっかしよって、ずるいねん。オトナに好かれんのはいっつも治」

 侑くんが口を尖らせ、実にきょうだいらしい文句を言うので、思わず笑ってしまった。こんなにほがらかに「ずるい」と言えるような関係は、むしろフェアだ。

「治くん、おうちでは優等生なんだ」
「優等生っちゅうか、あいつはどこでも『ことなかれ』やな。さんの前やとちゃうの?」
「……どうかなあ」

 ストーブのつまみを微調整してライターで芯に点火をする。この小さなストーブでアトリエがそれなりに暖まるまで、わたしたちは熱いお茶を飲んで、駅前で買ってきた鯛焼きを食べながら、少しの話をした。とくに実のない話ばかりではあったけれど、治くんからはあまり聞いたことのないバレーボールの話を侑くんはたくさんわたしに聞かせた。彼らの毎日がどれだけそのひとつに懸かっているのか、実感をもって知る。わたしが絵を描くように、彼らはボールを追いかけるのだ。
 少しずつ陽が傾き、アトリエのソファが二月の淡い陽だまりに沈む。レースのカーテンのようなひかりが差しこんで、デッサンをするのにはちょうどいい雰囲気になった。クロッキー帳をかばんから取りだして、侑くんにめくばせをする。友人から横どりしてしまったような作業だけど、わたしは今日、彼をこの目に写しとることを心待ちにしていた。彼の、横顔を。

「そこ座ってみて。視線はあっち。ラクな体勢でいてくれていいよ」
「はいはい」

 楽しげに、わたしの言ったとおりに侑くんが動く。彼はコートを脱ぐと黒いセーターにインディゴブルーのコーデュロイパンツを合わせたシンプルな格好になった。治くんもいつもそうだけれど、飾りっ気のない格好をしていてもスタイルが良いからさまになる。彼は、ほんとうにモデルさんのようだった。スニーカーを脱いで、どんな姿勢をするのかと思えば、侑くんはソファの上であぐらをかいた。窓辺へとうつろう流し目。鼻の高い立体的な横顔。美しさは、不平等なものだ。時の流れのほうが遠慮してしまうような、絵になる一瞬が、彼のもとにしんと留まっている。
 しばらくのあいだ、わたしが鉛筆をすべらす音だけが二人をつつんだ。沈黙が間延びして、しだいに無言でいることが意識の上のほうへとのぼってくる。侑くんの退屈を紛らわせようと「音楽でもかけようか」と久しぶりに声をかけたとき、彼は組んだ足をおもむろに崩してこっちを向いた。あまりにさりげなくて、顔は動かさないでと注意する隙もなかった。

さん、今日、治と会わんでよかったんですか」

 ――あいつたぶん今ごろ、することなくて家でふて寝してますよ。侑くんはこちらを試すみたいにそうつけ加えたけれど、そんな予言はほとんど致命的で、言われなくてもずっと胸は痛んでいた。侑くんを駅前で見つけたとき、いや、彼にわたしを見つけてもらった瞬間から、ほったらかして膿んだ傷口は酷くなるばかりだ。
 治くんから「会いたいです」という、シンプルなメッセージが届いたのはおとついの夜のことだ。なんと返そうか悩んで、悩んで、「先約があるから」という旨の返事をした。そのあとに何もやりとりが続かなかったことが、治くんの深い落胆のあらわれだったろう。
 ほんとうのところ、自分でも自分のしたこと、していることを、完璧に理解できていない。侑くんの誘いを断らなかったこと、彼との約束を隠して、治くんの誘いを断ったこと。こんなの、あてつけみたいなものだ。

「どういう顔で治くんと会ったらいいか、わからないの」

 あまり深刻な感じを与えないように慎んだはずが、言葉は思いのほか正確に感情を選びとり、思っていたほどさりげなく打ち明けることはできなかった。六つも年下の男の子に向かっておとなげない。そう感じてしまうわたしは、けっきょく、二人の半年間のことを「遊び」だと決めつけたかつての恋人と同じ物差しを隠しもっているのだろうか。クロッキー帳と、ソファの上の彼と、どちらからも目を離してまばたきをする。侑くんのつくる影が西日を遮って、ゆらゆらと火のように揺れた。

「なんで?」
「……わたし、治くんに訊きたいことがたくさんあるんだけど」
「訊けへんの」
「まだ」
「どうして」
「……なんか、治くんって繊細で、」
「ええ、どこが。あんな図太いやつおらんで。どんっなやかましい教室でも、部室のベンチでも、合宿所のせんべい布団でも、十秒あれば寝よるもんあいつ」

 突然さらさらと侑くんの声が流れ、所在なくまるまっていた背中がきゅっと張る。ストレッチでもしているみたいに曲げた脚を腕で抱えながら、侑くんはくつろいだ様子で自分のきょうだいのことを語った。綿毛のように軽く、思いもよらぬところへと話が飛んでいく。

「……えっと、」
「あとなあとな、飯も、あいつ舌アホやからなんでも、なんぼでも食うし。神経鈍すぎてうまいもまずいもわからんのとちゃう」
「あはは、言うね」

 侑くんの話はテンポがよくて、治くんのことならいくらでも思いつくというふうに一から十までよどみなかった。欠席裁判のような内容で少し申し訳なかったけれど、彼がこういう話をしてくれている想いを汲むのなら、ちゃんと笑わないといけないのだろう。治くんが繊細だなんて、相手を思いやっているふうで、そのじつ言い訳めいたものを隠した「ずるい」言葉だ。分かろうとしないままどこかで突き放している。わたしは家族の一員のように彼を知りたいわけじゃない。恋人として。二人にもし、そのつもりがあるのなら。

「ありがとう侑くん」

 クロッキー帳に鉛筆をはさんで膝に両手を重ねあわせる。胸に手を当てているみたいに、かすかな脈拍をどこからか感じた。

「わたしたち、きっとまだ本音で話したことがないんだと思う。……でももう、ちゃんとしないとね」

 いま、ここにある季節が過ぎ去ってしまう前に、あいまいで壊れそうで、いつもさわるのをためらってしまっていたこの感情にけりをつけないといけないのだと思う。心の雪はほうっておいても解けない。積もるだけ積もって、いつか雪崩れるだけだろう。
 帰りしな、デッサンモデルを引き受けてくれたお礼の数千円と、季節柄用意したチョコレートを侑くんに渡した。正確に言えば、渡す前に奪われるようなかたちだった。何かの冗談のように腕を引き寄せられたとき、侑くんの腕のちからは大したことなかったはずなのにわたしはすでに彼の胸のなかにいた。獲物を包囲するような如才ない手つきで、たっぷり十秒かけて微熱を移しかえたあと、こそばゆい前髪がひたいと鼻筋に落ちてきた。二人のすきまで行き場を失っていたチョコレートのラッピングなんかに、侑くんは目もくれなかった。ただ、数時間、一方的に縫いつけられた視線をすべて跳ねっ返すように、彼はわたしを凝視していた。

「これはモデル料やなくて、相談料な」

 年上をからかっているという嫌味な響きはなかったけれど、彼はきっと、この奇妙な関係をまるごとおもしろがっている。そんな雰囲気だった。治くんがどうして彼の存在をわたしに隠そうとしたのか、ようやく理解できたような気がする。侑くんは、ふつうのひとなら立ち止まるしかない柵を構わずするりと越えてしまう手のひとだ。たとえ柵の向こうであっても、好意や幸運の在り処がそこにあるならば、意志のほかに迷いを生まない。自分を呼ぶ声、つながる視線、チョコレートをつつむ金色の紐、クロッキー帳の奥深く、ひっそり仕舞われているものでさえ、彼は目ざとく見つけて突きつめる用意が、つねにあるのだ。

さん一度、俺らの試合観に来たらええのに」
「……試合を?」
「治の横顔が見たいんやろ。うちのチーム、試合中によそ見するアホはおれへんと思うよ」

 にっこり笑って、侑くんは「待ってますね」とわたしの腕を離した。
 一度だって見たことのない、治くんが一心不乱にバレーボールを追いかけているすがたを、わたしはわたしの想像力をつかって膨らませてみる。治くんがわたしの絵を見ないように、わたしだって、彼の大切なもののことを知ろうとしてこなかった。わたしは自分が思うよりずっと、おとなげない。だけど二人、無邪気な子どもが遊ぶように恋をするには、もう、色々なことを知りすぎてしまった。
 ひとおもいに首を縦に振ることも横に振ることも無責任に思えて、わたしはただ、手の甲で乾燥した唇を押さえ、恋人ではない、もうひとりの年下の男の子を恨めしく見上げることしかできなかった。









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2018.2