Ⅴ 愛の病




 最近、コントロールがきかない。
 自分でもおそろしいと思う。思うだけはそう思う。幸いなのは自分を狂わせている張本人とこの状態で顔を合わさずに済んでいること。いやむしろ、満足に会えない日々の積み重ねがこのざまなのか。あの日、昼休みの十分間なんかつかって、せこい会い方なんてせんといたらよかった。どうしても我慢できんくて、誰に見つかってもおかしくない休み時間の空き教室に、をひっぱりこんだ。腹減ってるときに中途半端にめしを食うたら、もっと腹が減ってくる。あのとき、コートの上からを抱きしめた、愕然とするような物足りなさ。埃にまみれることもいとわず、泥だらけになるまで砂場で遊ぶ子どもみたいに、ただ夢中で、互いに少しでも内側へ忍びこもうともつれた。いっときは飢えと渇きを凌ぐまたとないオアシスを得たような気分になったが、そんな刹那のなぐさみが長く続くわけもない。記憶のなかのいちばん真新しいを頭のなかでねぶり尽くして、もう、俺はとっくにおかしくなっている。

 三日間の新人戦はなんなく稲荷崎の五年連続優勝で幕を閉じた。年度内の大きな試合はもうない。大会が済んですぐ、俺はに連絡をいれた。会いたい、会いたい、会いたい、会いたい。百編唱えても止まらないような気持ちを抑えて、一言、会いたいです、と書いた。その返事がかえってきたのが、今朝のこと。返事をもらう前から、ようやく会えると信じきっていたせいで、どこか騙されたような気持ちになった。はいはいって、言うたのに。恋人と会えないなら、明日のイレギュラーな休日だって虚しいだけだ。

「そういえば、あの美人と別れたらしいね」

 昼休み、トレイに食券を乗せて食堂のカウンターに並んでいるとき、角名がなにげなく俺に話を振った。日替わり定食ときつねうどんを待ちながら、こんな場所でも少しでも隙があるとのことばかり考えてしまっていたから、角名の言葉にも内心びくついてしまう。主語を言え、主語を。カウンターのすみでしょうゆラーメンに慎重にこしょうを振りかけていた角名が、手を止め、俺を振り返る。まだ話を理解していないふうの俺を見て、何かを値踏みするように。

「ほら、侑の」
「……ああ」
「彼女のつくってきたチョコに『こんなん食うて腹下したらどうすんねん』って言ってふられたらしい。うける」
「もったほうやろ」

 似せる気のない角名の声マネに脱力しつつ、こたえる。季節の変わり目に衣替えをするようにとなりに並ぶ女子が易々と入れ替わるので、あの美人と言われてもどの美人かよく分からない。ひとつ下の帰国子女やっけ。それはいっこ前か。いや、ふたつ前やったかな。たいがい、顔はええし。あいつが自分のためにみつくろってくる女子はいつも、俺にとっても好ましい容姿をしていることが多かった。まったく、腹が立つ。いや正確には、腹が立ったこともあった。今は心底どうでもいい。「好みのタイプ」と「好きなひと」は全くの別物だと、俺はとうに学んだのだ。
 中庭に面した窓際の一角、ばか騒ぎしているバスケ部の連中から距離をとるようにして、俺たちは向かいあって腰をおろした。昼休みもなかばを過ぎて、食堂はいつもよりすいている。角名と二人揃って北さんに引継ぎの件で呼びだしをくらい、危うく食いっぱぐれるところだったが、今からかきこめばなんとか間に合うだろう。

「ようあんなやつと付き合えるよな。自分のことしか考えてへんし、言い方最悪やし、平気で嘘つくし。俺やったら三日ともたんわ」

 制服の後ろポケットから取りだしたスマホをテーブルに置いて、どんぶりをわしづかむ。ありえんくらい腹が減っているので、ハーフサイズのうどんなど三口ぐらいで食べられてしまいそうだ。角名はラーメンを汁物がわりに、持参の握り飯を頬張りながらにやりと笑った。まあ、こいつはもともと大口あけて笑うようなことはほとんどない変人だ。

「十七年間、家族やってるくせに」
「好きでやっとるか」
「そういう治はどうなの、彼女とは」

 頬張りすぎたうどんの麺をろくに噛まずに一気に飲みこんでしまい、喉が詰まりそうになる。げほげほ、とあからさまに焦って噎せたみたいなん咳がでて、それだけでもみごとにやらかしてしまった感じだ。俺は身近な誰にもとのことを打ち明けてはいない。教育実習生とはいえ実習先の生徒と付き合うてるなんて知れたら、彼女にとってややこしいことになるかもしれないし、外野に興味を持たれる筋合いもないと思っていた。しょうもない独占欲だと、分かってはいても。

「……かまかけよったって、」
「これ、ペアストラップなんだって? 女バレの一年が同じのかばんにぶら下げてた」

 そう言いながら、角名は行儀悪く、手に握っていた箸の先で俺のスマホを指した。なんなんやろこいつ、性根の悪い三流ゴシップ誌の記者かなんかか。空腹だっていうのに、めしが喉を通らなければ腹も膨れやしない。
 確かに俺のスマートフォンには、銀メッキの剥げかけたイルカのチャームがひとつくっついている。去年の八月、初めてと遠出をしたとき、立ち寄った神戸の水族館で手に入れたものだ。イルカがジャンプしたときのかたちで、ふたつを向かい合わせに並べるとハートマークができあがる、らしい。どうしてがこんなありふれた土産物を欲したのか、よく分からない。こんなの彼女の趣味ではないと思うのだが。それでも、あのときは惹きつけられるように、水族館の売店でこのストラップを手に取った。中学生の修学旅行みたいだね、と楽しげに笑いながら。

「……ちゃう」
「何が」
「付き合うてへんからな、その一年と」
「ふうん」
「……これは、その、告白されんのがだるくて、俺が勝手につけとるだけや」
「うわ」

 あからさまにめんどくさそうな顔をして、角名は俺にうたぐりぶかい目をよこした。ご丁寧に、ばかでかい溜め息までつけて。俺だってこれが、みょうちきりんな弁明だってことは分かってる。とっさの返答にミスったってことも。せやけど。

「治って無自覚なぶん、侑よりタチ悪いよたまに」

 それだけは絶対に言われたなかったわ。
 んなわけあるか、と間髪入れずに反論をする。角名はあのいやあな感じのする笑みを湛えて、肩をすくめるばかりだった。



 貴重な開校記念日はめしを食って寝ているあいだにあっという間に過ぎ去った。仰向けにベッドに横たわり、との今までのメッセージのやりとりを指をすべらせ、眺める。待ち合わせの時間と場所を決めるとき以外、俺たちはあまり連絡を取りあわない。これが淡泊なのかふつうのことなのか知らないが、前に付き合うてた子たちはみな、何かあると、いや、何もなくとも、俺に何かを伝えたがった。あのころはうっとうしいとしか思わなかったあれこれが今はときおり、とても恋しい。は俺に、俺はに、何も伝えるべきことを持たないのだろうか。
 ストラップの穴からぶらさがったイルカが、振り子のように揺れてる。
 とそのとき、やかましい足音がずしずしとのぼってきて、俺はすみやかにスマートフォンをまくらの下にすべりこませた。

「うわお前、今日マジでずっと寝とったん」

 部屋のドアを開けてすぐ、ベッドに寝転がっていた俺を見とがめ、侑は心底呆れたような口ぶりでそう言った。まくらに頭を押しつけ、それから、うつぶせになって目をひらく。片目の視界のなかで、侑は気に入りのモッズコートを脱いで、ハンガーにかけた。上も下もくたびれた定番のものではなく、この冬買った真新しいものを着ている。出かけていくときは気づかなかったが、どうも、そこそこめかしこんで行ったらしい。
 ――あの美人と別れたらしいね。
 昨日の三流ゴシップ記者の垂れこみが、このタイミングで脳裏によみがえった。

「黙れ。ひとの勝手や」
「さみしいやっちゃな。バレーとったらなんも残らんな」
「よう言うわ。自分やって似たような……」

 重たいからだを渋々と起こしたとき、使い古した憎まれ口も喉に詰まってしまうような、見逃すことのできない光景がよぎった。コートのポケットを探り、侑が、俺と色違いのスマホと、二つ折りの財布と、リボンで飾られた手のひらサイズの小箱を順に取りだしたのだ。
 また新しい女か、と見下していられたのが数秒。正月に、カーペットに落ちてたタグを見つけたときのような、血の気の引いていく感覚を覚える。
 小箱にかけられたそのリボンに、俺はよくよく見覚えがあるような気がした。細身の、ゴールドの。もらったらもらったぶんだけけっして捨てられず、机の引き出しの奥深くにみみっちく貯めこんでいるから、すぐに気づいてしまう。クリスマスに贈られたセーターも、そうだ。自分好みのものを、自分好みに飾りたいとき、彼女はいつもそのレース編みのリボンをあでやかに結んだ。

「……侑、お前、今日どこ行ってたん」

 ためらう余裕もなく、そうつぶやいていた。椅子の背にもたれ、足先を絡めた不遜な態度で侑が俺に向き直る。笑えへんようなことも、しゃれにならへんようなことも、口角を上げるだけでガーゼのように軽く吹き飛ばしてしまう、薄っぺらな笑顔で。

「ひとの勝手やんなあ」

 お返しだと言わんばかりの、意味深なその先を問い詰めてしまいたい。溢れだしそうな欲望にぐっと栓をする。ありえない、あるはずもない、そう呪文を唱えながら心のどっかでいちばんに恐れていることがある。どうしてこんなにも現実的な恐れとして、それを抱えているのか。分からない。だけど昔から、そうだった。

 無言のままではひっこみがつかなくなり、俺は、出るつもりもなかった部屋をまくらの下のスマホをひっつかんで飛び出した。一階の突き当たりの客間で、に電話をかけるために。コール三つ、不安が緊張を覆い尽くす前に、は俺の呼びだしにこたえた。いつもと同じように、いつも通りの優しい声が俺を迎える。安堵すべき彼女の「ふつう」が、今日はむしろ疑念を煽った。はきっとはぐらかせない。それを知っているから、だから、けっして訊けなかった。
 勢いの電話で、俺は、次の日曜日にと会う約束をとりつけた。時間と場所を決めるだけのたった数分の短い会話でも、真冬の客間はとても長くいられないような寒さで、唇は震えるわ、指はかじかむわ、足先は痛いほど冷たくなって、しまいには悪寒がした。

「治くんと会えるの、楽しみにしてるね。少し話したいこともあるし」

 通話口ごしのの声だけが三十六度の温もりを俺に分け与えてくれていた。



 日曜の午後七時、公道沿いのファミレスの窓際の席で、はコーヒーを飲みながら俺を待っていた。グループ校との合同練習が長引いて一時間の遅刻をした俺に、はいやな顔ひとつせず、半月ぶんの時を埋めるように軽やかに笑いかけてくれた。胸がかっと熱くなる。くたくたのジャージを着たまま駆けつけた、そんな自分があまりにみすぼらしくて。彼女の笑顔に何も返すことができず、気まずさを引きずったまま、俺たちは淡々と食事を済ませた。
 八時過ぎにファミレスを出て、の青い車に乗りこむ。時間まだ大丈夫、と訊かれて「はい」と応え、うちに行こうか、という提案には黙ってうなずいた。練習後の疲労と、食後の眠気が、車がすすむごとに不思議と消えてゆく。覚醒してゆく。しばらく走って、こうこうと明かりのついたドラッグストアにさしかかったとき、はあっと何かを思いだしたように左折した。がら空きの駐車場にが車を停める。突然のことだった。

「ちょっと待っててもらえるかな。シャンプー切れてたの思いだして。すぐ、戻ってくるから」

 ハンドバッグから財布だけを取りだし、は俺を助手席に残して車のドアを閉めた。途端、溜め息が漏れて、自分がずいぶんと緊張しきっていたことを知る。こんなはずではなかった。こんな、苦しいはずでは。と会うのに、がとなりにおるのに、の部屋にゆくのに、どれもこれも、浮かばれない。話したいことがある、そんな彼女の言葉が、ずっと小骨のように引っかかっていた。
 ほんまに、侑のことなんか。それとも。……
 運転席のシート、無防備に口を大きくあけたかばんのなかには、のスマートフォンがはっきりとのぞいていた。薄暗い車内にうろつかせていた視線が、俺のそれと同じだけの時を刻み、メッキの剥がれたのイルカに触れる。この先の悪事を美しい思い出に目撃されないように、俺は、そのイルカのチャームを手のひらに仕舞いこんだ。
 けれど、ほんとうに悪事だと思っているのなら、きっとこんなことはしない。今も、あのときも。罪悪感以上に、体内を満たすものがある。だから、懲りずに指を動かしている。これはもう出来心なんかではない。頭では分かっているのに、自分を制御できなかった。

「お待たせ、治く……」

 が小走りに戻ってきたとき、俺はまだ、彼女のスマートフォンをはっきりと握りしめたままだった。この瞬間、隠しごとを見つかってしまったのは、俺のほうだったのか、のほうだったのか。息を呑むの沈黙を振り払うように、俺は勢いにまかせて彼女を責めていた。

さん、なんですかこれ」

 のスマホの発着履歴を彼女の眼前に突きつける。はすぐに俺からそれを奪い返して、自分の手のうちで、表示されている画面をあらためて見やった。うつむいた表情が何を孕んでいるのかは読みとれなかったが、声を聞けば、それは存外に落ち着いていた。

「……治くん、双子のきょうだいがいたんだね」
「俺の質問にこたえてください」
「……このあいだ、彼にデッサンのモデルをお願いしたの。これは、そのときの電話」
「は、なん、」
「偶然会ったの。一月にほら、稲荷崎に行った日に……黙ってて、ごめんね。でも、治くんから侑くんのこと聞いてなかったから、なんとなくわたしからは言いにくくて」

 侑くん、とがあいつの下の名前をなぞる。その裏側に二人のどんなやりとりがあったのか、頭はすぐにおぞましい想像をしてしまう。は「聞いてなかった」なんて濁した言い方をするが、自分でははっきりとした自覚があった。双子の片割れの存在を、敢えて彼女に隠しているという。
 たいていは名前よりも先に知られてしまうような事実を、は知らなかった。だからきっと、浅ましい欲が出た。安っぽいその場しのぎも時間を積み重ねていくうちに立派な嘘になる。ずっと引き延ばしてきただけだ。いつか訪れる、この、最悪の瞬間を。
 ひとしきり忌まわしい思い出が押し寄せ、一旦、波のように引いていく。引き攣れた砂地の奥にあらわれたのは、後悔ではなく、どんな大波にも攫えないような、燃えさかる嫉妬だった。ついた嘘よりもつかれた嘘が、俺にはけっして許せなかったのだ。

「俺と会えへんかったのは、侑と会うてたからですね」

 先約があるから、はあの日、俺の「会いたい」という誘いを断った。俺を拒んだ。否定も、肯定も返ってはこない。ただ俺の震える声を諫めるような、そんな静かな瞳をもたげて、は口をひらいた。

「……あのね、今日はそのことをちゃんと話したくて」
「言いわけ聞きたないわ」
「大事な話なの」
「これがですか?」

 自分でもぞっとするぐらい嫌味なせせら笑いがどこからかせりあがってきて、それはをひととき黙らせ、そして自分自身を怯ませた。どんな理由があったとしても、何があってもなくとも、は俺ではなくて侑と会うことを選んだ。一瞬でもと侑が惹かれあった。そのことを認められない。許せない。これ以上の裏切りないというぐらいに。
 あんなにさんざん、の中の自分の輪郭を裏切ってはいけないと思っていたはずなのに、今の俺はむしろ自分から、彼女をひどく裏切っている。彼女の描いた絵をめちゃくちゃに破り捨てるようなことをしている。こんなのただの報復だ。俺は自分が受けた傷を、に返したくて、分からせたくて、ただそれだけだった。

「……さんのことが全然わからん」

 長い溜め息で混乱をごまかしながら、そう、できるだけ突き放したように発音する。フロントガラスの向こう、閉店間際のドラッグストアの人工的な灯りがぼんやりと霞んで見えた。へたくそな水彩画のように色と色が溶けあって、まざりあって、まばたきするたび目の前の夜景がくずれてゆく。

「……わたしだって、治くんのこと全然わからない」

 消え入りそうなの声がみょうにはっきりと鼓膜を揺する。トレーナーの袖口で素早く目もとをぬぐい、窓の外の夜から視線をはずす。そして今日初めて、この暗く息苦しい密室のなかでとまともに見つめあった。

「治くん、こうやって勝手にわたしのスマホ見たの、初めてじゃないよね。履歴見て、電話かけたこともあるでしょう。どうしてそんなこと、したの」

 の目。うっすらと涙を溜めているかもしれない目。だけどどこにも湿っぽい様子はなくて、糾弾の口火を切るように凛々しくひかっている。どうして俺が。どうして、いま。まるで盾のように罪状を跳ね返されても、けっして相殺なんてできない。誰かを一心に見つめ続けることが、他人によそ見をすることより毒だと、彼女はそう言いたいのだろうか。

「……なんなん。それは、今は関係ないやろ」
「そうかな。侑くんのことも、電話のことも、信頼の問題だと思う」
「こそこそ他の男と会うてるひとを信用しろやなんて、それこそ勝手や」
「わたしを信用しろなんて言ってないよ。……けど、わたしはただ、治くんにはもっと自分に自信をもってほしくて、」

 が言葉を切ったのは、俺が、のスマートフォンを彼女の手からはたき落としたからだった。
 勢いをつけて、真っ暗なシートの床にスマホがたたきつけられる音がする。見当違いだ。そんな言葉が欲しいんじゃない。寄せては返す後悔の冷たい波を激しく突き破り、嫉妬と怒りのマグマが噴きだす。ただれた感情が、どろどろととどまることなく溢れ、たちまち胸じゅうを塗りつぶした。俺を見上げるの目に、惨劇のひびが刻まれる。

「年上ヅラして、俺に説教すなや。浮気女が」

 胸のなかで熱を食って暴れ、とうとう胸におさまりきらずに氾濫したそれは、冬の外気に触れた途端に急速に冷たく、空しいかたまりになっていくように思えた。こんなはずじゃなかったと、口にして初めてうろたえる愚かさ。はっとして、暗い足もとに探るように腕を伸ばし、自分でふっ飛ばしたのスマートフォンを拾いあげる。ほの白い外灯のひかりに晒されたそれを見て、青ざめた。細かなビーズのワイヤーが千切れ、二人の揃いのペアストラップが無惨なほど壊れてしまっていたのだ。
 少しちからをこめただけでダメになる、ちゃちなストラップを見て俺は初めて、自分のしたことの重大なあやまちに気がついた。

「……さん、ごめ、」

 狭い車内で、黙りこんでしまったの細い肩に俺の手指が触れたとき、はまるで自分の身を守るように腕をたたんで上体を縮こまらせた。さっきまでの、俺を責めたてる、つよい目をしたはもう居なかった。滲んだ世界に二人して沈み、浮きあがるすべがない。このまま溺れてしまう。深い夜の底まで、まがまがしい衝動が舵を切る。
 身を乗りだしたとき、肘にルームランプのスイッチがあたり、二人のうしろぐらさを照らしていたか細い明かりもとうとうすべて無に帰した。

「ごめんなさい、治くん……」

 闇のなかでは何度も、そう言った。混乱する。何を。なんで。不透明なごめんをが吐き出すたび、こめかみに痛みと苛立ちが響いて、それを掻き消すためにまたにすがりついている。視界を奪うように、覆いかぶさってしまえば、今だけは誰にもなんにも邪魔されない。によく似合いの、赤いリブのニットをひっぱる。だめにしてしまえと、きれいに開いた襟口に、獰猛な手を伸ばす。彼女の鎖骨がどろどろに、熱い。の表面も、俺の内面と同じ、どうしようもないマグマのよう。

 ――自分のことしか考えてへんし、言い方最悪やし、平気で嘘つくし。

 あれは俺だ。









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2018.2