Ⅵ 半身 - 1




 遠い記憶の残りかすのような幼い日のことを夢に見た。
 撹拌すればすぐにあとかたもなく溶けだして、息を吹けば散り散りになるのに、放っておけばまた胸底に小さなうずをつくって、いつまでも居座り続ける。忘れたいと思うかぎり、忘れることはないんだろう。あれはまだ俺たちが、動物のワッペンなんかがついた水色のスモックを着て毎日を過ごしていたころだ。断片的に思いだせるのは、賑やかな「お絵かき」の時間の年長クラス。手に持っていたクレパスの青。画用紙にそれをのっけた、ざらついた感じ。適当に絵を描き終えて、俺は、画用紙の右下に自分の名前を書いた。宮治。覚えたてのその二文字を揚々と刻んだ。

「あら。治くんもう漢字で名前が書けるの、えらいねえ」

 俺の横を通りすがった担任の先生が、俺の書いたへたくそな字を見て感心したように机の前にしゃがみこんだ。褒められたのが嬉しくて、けど得意になっていると思われたくなくて、俺は唇を噛んだ。頬の筋肉をむやみに動かさないように。
 机のとなりの席には侑が座っていた。
 侑は、俺が先生からもらった褒め言葉を聞いて、自分も一生懸命に画用紙の上、手を動かしだした。かろうじて「宮」は俺のまねして書けたけど、「侑」のほうはどんな字かうろ覚えのようで、にんべんがただの十字になったり、「有」がくずれた「右」になったりして、しっくりこおへんくて、しまいには泣いた。そう、ちいさいころ侑はよう泣いたのだ。べつにいじめられっこだったとか、引っ込み思案の弱虫だったとか、そういうことではない。ただ感情の振り幅がやたら大きく、振りきれた感情を隠したり、閉じこめたり、放っておいたりするのが苦手なやつだった。子どもなんやから、そんなのは当たり前のことかもしれない。ただ俺は、いつもとなりにおったから、誰よりもあれに圧倒されていただけで。並んで映画みとって、となりのやつが号泣してると、逆にこっちの涙が引っこんでしまうような、そういう経験あるだろう。外見も性格も似た者どうしかもしらんけど、感情まで平行線のように、仲良う付き合いきれるもんやない。心は密室。鍵はひとつだ。

「せんせえ、俺、書けん」

 赤のクレパスを握りしめたままのこぶしでおざなりに悔し涙をぬぐう。あらあら……と言いながら先生が中腰になって侑の頭を撫でるのを見て、俺はうろたえた。なんだかほんの一分足らずで、世界の意味がまったく反転してしまったように思えたのだ。

「大丈夫よお、侑くんは治くんより、ほんのちょおっと難しい字やからねえ」
「なんで、おさむだけ簡単なん、ずるい」
「ふふ。がんばったねえ、えらいえらい」

 と、先生が侑をあやす。侑のことがかわいくて仕方ないような猫なで声で。子ども特有の過剰なねたみもうらやましさもあったかもしれない。俺は「えらい」だけど、侑は「えらいえらい」なのだと。侑は俺のことをずるいと言って泣きじゃくってたが、俺にはそうやっていつも、感情を表にだして、やれやれという風情で大人の手をわずらわしている侑のほうが、ずるいやつだという気がしていた。たとえそれが侑の術ではなく才だとしても。それにもっとずるいのは、泣いて拗ねてさんざっぱら機嫌をとってもらったうえで、こいつは大の負けず嫌いだから、次の日には「侑」の一文字をすっかり書けるようになって、大人からの「えらい」をもうひとつ我がものにするところだ。
 最初からできるやつより、できないものができるようになったほうが、よほど強烈だ。俺だって、そう思う。
 五歳のあいつが泣きはらした目で俺を見る。そこで、目が覚めた。

「……さいっあくや」

 つまらない思い出のなりそこないに、時計のアラームなんかよりも数倍いやらしい起こされ方をした気がして、思わずだいぶ情感のこもった一言が寝起きから口を突いた。渇いた喉の痛み。さいあくや。さいあくの寝覚めや。だけどおかげで、本来の起床時間よりもずっと早く、静かに、ふとんを抜けだすことができた。そうしたい、という深層心理が目覚めの一手に用意したのがこの夢だったのなら、だいぶ絶望的だ。
 入りタイマーの暖房もまだかからないくそ寒い部屋のなかで即座に制服に着替え、さっさと部屋を出る。いちども、二段ベッドの上でまるまってるやつになど目もくれずに。居間の食卓では親父がすでに朝食を済ませて新聞をひろげていた。紙擦れの音と、食パンとコーヒーのええ匂いがする、いつもの朝。

「おはよおさん。侑は?」

 キッチンの珠のれんをわけて冷蔵庫に直行すると、カウンターから身を乗りだしてテレビを見ていた母親がこっちを確かめもせず「侑は」と尋ねた。朝のフラッシュニュースは遠い異国の地に落ちた隕石のことを連日伝えている。タイムラグのある現地記者のリポートが今日もひどくもどかしい。

「寝てる」
「寝てる、やないよ。あんたが起こさな、練習あるんやないの。間に合わへんでしょ」
「月曜やって今日……」

 朝からはきはきと冷たい水のような声を浴びせられると、それだけで気がめいってしょうがない。牛乳を適当なコップに注いで、その場で一杯からにした。そしてもう一杯。その横で、母親がカウンターの卓上カレンダーを引き寄せる。そこにはバレー部の練習日程、試合の有無などがびっしりと書きこまれていた。

「あらやだ、そっか……昨日、遠征やったわ。あんたやけに早起きやねえ」
「起きてもうたんやろ。先週は試合やったから」
「ふうん。なら侑はもおちょい寝かせといたげよ。あの子、朝弱いし」

 俺抜きで続いていく会話を眠いふりして受け流しながら、内心そこまでぼけてへんと思っていた。朝練があるのでも、ミーティングがあるのでも、日直の当番なわけでもない。今日の早起きはすべて、昨日のせいなのだ。同じ家の、同じ部屋で生活しとって、こんなの悪あがきでしかないと分かっている。それでも、今はあいつと顔を合わせたくない。喋りたくもない。その想い一心に、あんな夢を見てまで、アラームに頼らずベッドから這いでた。そうでなきゃ、誰がこんな無意味に睡眠時間を削るようなこと、するものか。

 昨日は結局あのあと、の部屋には行かなかった。行けるはずもない。車を飛びだして、そのまま家まで走り帰った。混乱していた。自分があの真っ暗な車内で何を言ったのか、何をしたのか、何をぶつけたのか、何を壊したのか。かろうじてそういうことを考えられるぐらいに頭が回ったのは、日づけを跨いで、もう家じゅうが寝静まったころだった。眠いのに、眠れない。あげく、たちの悪い夢を見て、数時間しかまともに寝てへん気がする。起きて、なんの連絡も入っていない充電中のスマホを見て、正直ほっとした。身勝手に怯えているのかもしれない。今、どんな言葉や、どんな決断をから受け取っても、きっと俺は彼女を傷つけるような駄々をやらかすに違いないと思ったから。車のなかで、自分をまったく制御できなかったように。
 充電ケーブルからスマホをはずしたとき、一緒に、錆びたイルカを強引に引きちぎった。シーツの上に、細かなビーズがぱらぱらと散る。あの車内でのできごとと同じ、脆いものだ。
 今だってこんなふうに、ちから任せの癇癪しか起こせない。



 その日、俺はほとんど自分のスマートフォンを見ないようにして過ごした。朝の混みあったバスのなかでも、授業と授業のあいまにも、手持ちぶさたな時間を窓に映る自分の顔とか、机につっぷした瞼の裏ばかり見てなんとか凌ぎ、ようやくそれに一瞥をくれたのは昼休みが始まってしばらく経ったころだ。うっすらひらいた目に捉えた、青いランプの点滅。鬼のように着信が入っていてみぞおちのあたりが痺れるような緊張に襲われたが、蓋を開けてみればそれはすべて家の電話からだった。
 朝、彼女からの連絡がなくてほっとしていたはずが、今は少しだけ気持ちが変化していることに気づいてしまい、やりきれない。たった数時間で、心模様はがらりと変わり、俺はもうさみしくなっている。自分から電話やメールをしようなんて、そんなこと考えもしなかったくせに、勝手だ。

「なに、もう」

 教室を離れて非常階段の適当なところで不在着信の履歴から電話をかけ直すと、発信音はすぐさま途切れ、かわりに「やっとつながった」と母親がきんきん声で喋りだした。

『あのねえ今日、侑、学校お休みさせたから』
「休みい?」
『部活もないしちょうどええと思って。すこし熱あるみたい。こないだの風邪、ぶりかえしちゃったかねえ、これは』

 母親の口調はまったく困ったふうでも深刻なふうでもなく、むしろ呆れたような笑みを含んだ気の抜けたものだった。数週間前、新人戦を控えた大事な時期に咳きこんでいた男のざまが思いだされる。ぶりかえしたというには日が経ちすぎだと思うが、真冬の底で、いつどんなきっかけであれが体調を崩したって不思議ではなかった。例えば昨日の、遠征先の高校のロッカールームが寒かったとか、帰りのバスで前に座っていた客が鼻をずるずるいわせてたとか。そういう些細なほころびをみずからあげつらう、神経質なやつだ。そのくせ、練習や試合にはなんとしても出たがるものだから、なおのことたちが悪いのだが。

『それでね、お母さん今日これから、おばあちゃんとこ行かなあかんから、ね、帰ったら侑のことよろしくお願い。夜はおうどんでもつくってあげて。卵でもおあげさんでもなんでもあるから』
「はあ、ちょっ」
『あんたにはカレーつくってあるから、侑も食べられそうなら一緒に食べて、食後のお薬忘れんようにね』

 なぜあいつの薬のことまで、俺に言う。本人に言え。めしさえ与えておけば俺が思い通りに動くと思っている母親は、きわめつけに「ユーハイムのミートパイ買ってきてあげるから」としらじらしくつけ加えて一方的に電話を切った。母親は月に数回、ばあちゃんの世話をするので夜に家をあける。だから、こういうことづけ自体はべつにめずらしいことではない。あれを買って帰れだの、帰ったらあれを食べろ、あれをしておけだの、口うるさく伝えてくる。煩わしく思うだけ無駄な日常だ。今日が、今日でなければ。

 耳から離したスマートフォンはなんの飾りっけもなく、静かで、それを思い知るたび自分の愚かさに胸を貫かれる。逃げれば逃げたぶんだけ遠ざかってしまうことと、どんなに逃げたところでひとつ屋根の下に戻ってくるしかないこと。一体どちらのほうが呪われているのだろう。



「帰んなくていいんだ、今日」

 放課後、一礼をして体育館のしきいをまたぐと、肋木のそばでバレーシューズの紐を結んでいた角名が顔も上げずにそう言った。侑が今日休んでいることは先のミーティングで部員みなが知るところだった。
 前日に試合や遠征があった月曜日は、表向き男子バレーボール部にとって唯一の休養日ということになっている。そうはいっても体育館自体は解放されているせいで、実際にまるまる休みをとることのほうが稀だ。母親は「部活もないし」と呑気なことを言ったが、みな、こういう日を利用してライバルを出し抜こうとしたたかに自主練を重ねるものなのだ。

「なんで俺が」
「いや、そういうものかなって」
「ちゃうわ」

 相変わらず、鬱陶しいほどするどいやつ。角名の一言はここに居ない男の体調を心配しているというよりも、ここに居る俺の気まずさをまるで見透かしているかのように響いた。今日に限って言えば確かに、俺は特別にジャンプサーブを強化したいわけでも、レシーブやブロックの基礎練に精をだしたいわけでもない。ここに居るのは、ただの家出根性だ。俺はあいつみたいに、三百六十五日、四六時中、バレーボールを純粋に楽しいと思えるわけじゃない。

「すな。すーなっ」

 校庭側の引き戸が半分ほどひらいて、俺はだらだらと靴紐を直していた手を、角名は籠のなかをさらってボールを吟味していた手を止めた。
 めずらしいミトンの手袋を嵌めた女子が顔をのぞかせ、角名に手を振っている。どこか舌っ足らずな彼女の「すな」の発音は、俺にはいつも「角名」というかどばった漢字の二文字ではなく、ひらがなの二文字を音にしたもののように聞こえた。もう付き合いだしてからけっこう経つような気がするが、二人はいまだに苗字で互いを呼び合っている。手に取っていたボールを籠に戻しつ、角名は「なに」と淡泊な返事をした。

「今日スタジオ借りてるから、先帰るね」
「ああ、そう。がんばって」
「すなはがんばりすぎないように。じゃあね、バイバイ」

 そしてもう一度、ひらひらと手を振る。角名は振り返さない。彼女の後ろにはギターケースのようなものを背負った男が二人おって、そのうちのひとりが、彼女の代わりに引き戸を閉めなおして行った。角名の恋人は軽音部にぞくしていて、バンド仲間らしき男たちと一緒に居るところを校内でもしばしば見かける。去年の文化祭、当の彼女にしつこく誘われて角名を含めたバレー部数人で軽音部のライブを観に行ったが、彼女はフォーピースバンドの紅一点として真ん中で歌をうたっていた。俺の知らない、けだるげなロックチューンを。

「……角名は平気やんな、ああいうの」

 閉じた扉を見据えて言う。不用意だったが、自然とそんな感想がこぼれた。ようやくちょうどいい張りのボールを見つけた角名が、相棒を床に叩きつけながら息を吐いて笑う。思いきりよくはずんで、それは彼の手のひらにまた吸いこまれていった。

「彼女がやりたいことしてくれてるっていいよ。こっちだって部活で、そんな構ってやれないし。お互い気遣わずにすむ」

 予想外に丁寧で、まっとうで、背すじが伸びるような答えが返ってきて、俺の考えなしの舌先は急に縮こまってしまう。同い年の男が急に数段うわての経験者のように思えてきて、誰も知りえない昨日の自分を責められているような気がして、その正論に素直にうなずくことができなかった。たいがいだ。俺はまだどこかで、自分の失態を、彼女の、の当然の報いだと思っているのかもしれない。後悔と同じだけの強さで、そう。

「けど……不安になるやろ、いつも他の男とおって」

 さして興味もない他人の関係に首をつっこみ、何をむきになって食い下がっているんだろうか、俺は。脚をひろげて身の入らないストレッチをしていた俺を、角名が食えない顔で振り返る。振り返って、ボールをこっちめがけて放ってよこした。反射的にオーバーで拾ってしまったそれは、やわらかく上がってふたたび角名のもとへ返る。そんな無言のラリーを何回か続けてから、角名はボールを片手でいなし、口をひらいた。

「まあ、俺の場合、自分と似てる子しか好きになんないから」
「……から?」
「べつに他の男と居ても、俺と居るときのほうが楽しいんだろうなって思う」

 俺だって、そうだしね。そうつぶやいて、角名が視線をうごかす。さっきひらいた引き戸のほうを眺めやるように。身近な人間の身近ではない何かに触れたときのひやりとした感覚が、胸を突いた。

「……えらい自信やな」
「自信っていうか、好きってそういうことじゃないの」

 さっきから、そういうものだとか、そういうことだとか。含みの多い運命論者ははっきりとしているようではっきりとしない言葉を残し、ペアを組んでレシーブ練習をしている部員たちのなかに紛れていった。
 の話をなんも聞かず、責めたいことだけを責めたて、浴びせられた言葉にはどれも耳を塞ぎ、男と女の腕力の違いをこざかしくつかいきって、あの夜はいびつにできあがった。怒り、悲しみ、失望、情けなさ、恋しさ。名前のついた感情がちぐはぐに襲ってきて、たった一日で俺の頭のなかはばらばら死体のように悲惨なものだ。自分に自分を引き裂かれてしまった。これが、の言っていたことなのか。自信がない。俺は俺自身のことをちゃんと信じてへん。そのせいで、まわりのもんが何も信じられんくなる。のことさえ疑ってしまう。穴の開いた感情をいくら縫い合わせても、ばらばら死体は蘇生しないのだ。



 六時過ぎに帰宅すると、ひとの気配はなく廊下も居間もまっくらで、つけっぱなしの居間の暖房だけが静かに温風を吐きだしていた。食卓に水の入ったコップ、薬、キッチンコンロにはカレーの鍋ひとつ、炊飯器のめしは炊きあがって保温になっている。俺は、ソファにかばんを放り投げ、階段をのぼるのではなく一階の廊下を突き進んだ。風邪をひいたとき、俺らはいつも母親が看病しやすいように、もうひとり病人を増やさないように、一階の客間にふとんを敷いて隔離される。案の定、一日を棒にふった男はそこで寝こけていた。ひとの気も知らず、アホづらで。
 見たくもないと思って、朝、置き去りにした顔。それでも結局、突き合わせるしかない顔。自分と同じ顔。こみあげてくる色々なものはけっして、どす黒かったり、おぞましかったりするわけではないけれど、割り切れない。最初に隠しごとをしたのは自分のほうなのに、勝手だ。

「……さむ」

 放っておこうと思い、ふすまを閉めかけて、肩を跳ねさすようなつぶやきが耳に忍びこんできた。のっそりとふとんが盛り上がったり、うねったりして、侑がこっちに目を向けるまで数秒かかる。ランプひとつの薄暗がりのなかで、ず、と侑が鼻をすする音が聞こえた。つまってるようで、うまくすすれてへんかったけど。

「あ?」
「ちゃう、寒い……」

 と、言って、侑はじじくさい盛大なくしゃみをした。暗にどうにかせえという訴えでだるかったが、しぶしぶ足もとのヒーターの設定を弱から強に変えてやった。侑の声は寝起きでとんでもなくざらついていた。明日の朝練も、このぶんだと出るだけでコーチにどやされそうだ。いいきみ。頭のなかに、そんなみみっちい言葉が浮かんだ。

「ばちがあたったんやろな」

 ヒーターをふとんの近くに運びながら、たっぷりと嫌味をこめてそう言いはなった。ふだん、神様なんて信じてへんのに、こういうときだけ天罰をふりかざす。侑は、心当たりが多すぎるのか眠気と微熱でなんも頭が回ってへんのか、はてなを浮かべた目で俺を見つめ返すばかりだった。余計なモンまで察する脳がついているのに、こういうときに限って。こいつの、ほんま、こういうところ。俺は絶対に、認めてやらない。

「なあ、腹減った……うどんつくって。つきみうどん」
「図々しい病人がいたもんや」
「風邪のときぐらい甘えさせてやあ」
「風邪ひきすぎなんじゃ! この虚弱体質が」

 ――治が侑のぶんの栄養もとっちゃったのかもしれんねえ。

 ふとんの上からどついたろうかと右脚を振りおろして、すんでのところで思いとどまる。脳裏によぎった遠い昔の、母親の声。また、性懲りもなく思いだしてしまった。何せ拒むのも億劫なほど、こいつの巣食う思い出は吐いて捨てるほどあるのだから。母親にしてみれば、何気ない冗談のような独り言。卵粥を無理やり食べさせられている鼻垂らしの侑の向かいで、そのとき俺はがつがつと昼めしのチャーハンを食べてた。その言葉のせいで、味せんかったけど。物心ついたころから好き嫌いなんてなくて、苦い野菜も、牛乳も、レバーだってなんでも食えた。それにひきかえ、こいつは。今でこそ雑食だが、昔は食えへんもんばっかりで、すぐ体調崩して、世話のかかるやつ。すぐ甘やかされるやつ。それは今でも、そうだろうか。

「侑」
「ん……なん」

 言ってやりたいことが色々とあった。聞きたいことも山ほどあった。だけどそれは、無いなら無いで構わないことのようにも思えた。アホみたいに風邪ひいてる片割れを見ていたら、気が抜けて、気の抜けたぶんだけ胸に穴が空き、に会いたいという思いがその空虚めがけてなだれこんできた。無いなら無いでは、済まされないものが、彼女とのあいだには多すぎる。それなのに、ずっと。

「……お前も俺も、画数は同じやからな」
「はい?」

 会わせたくなかった。知られたくなかった。知ってしまったら、もしも会ってしまったら、はこいつのことを気に入ってしまうかもしれない。俺宛ての「えらいね」を、後ろからくっついてきてすぐ自分宛ての「えらいえらい」に変えてしまう、そういう男なら。たとえどんな感情でも、何かが生まれること自体、許せなかった。理性の届かないところで育った、湿っぽい嫉妬が心臓に纏わりつく。この重たいものを捨てることができたら、今度こそ俺はとうまくやれるのだろうか。
 幼い悪夢から醒めたあと、そんな夢をまだ見てる。









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2018.2