3 : his edging blue




 爆豪勝己はその手のひらに他人を統べるに値する十分な能力を与えられて生まれてきた。
 この超人社会、人となりが個性となるのではなく、個性がその人となりをつくっていく。まったくそういう部分がないとは言い切れない。それは自分にとってもそうだし、他人に対してもそうだ。誰がどんな能力を持って生まれたか。それを知ったとき、自分のなかに、他人に対する評価が多少なりとも生まれる。勝己も例に洩れず、そういう人間だった。むしろ周りよりその傾向が強いとも言えた。なんといっても彼自身が、己れの個性に依って、誰よりも己れを高く評価していたのだから。

「顔で言ったら、やっぱダントツだよなー」

 仲間うちの誰かがそう言い、波のように数人が同調する。右から左に会話を流していた勝己の、滅多に他人には向かない瞳がぐるっと教室内をうごめいて、名指されたひとりの少女を突き刺した。が窓際で友人と談笑している。年ごろの少年たちの無作法なお眼鏡にかかれば、それは「個性」以上に強力な他人をはかる尺度となる。個性と同じように、親から授かったもの。勝己は、生まれて初めて他人の個性ではなく、他人の容姿に興味をもった。そしてほのかに、に苛立った。何かとても、己れ自身に対して無頓着な感じを受けたのだ。それは、自分が持って生まれたものを最大限に生かそうと考えて、ただそれだけを考えて生きている勝己にとっては、あるまじき態度だった。クラス劇の配役決めの機会に、出し抜くようににあんな言葉をかけたのは、もしかするとこのとき感じた苛立ちのあらわれだったのかもしれない。

 中学二年生の文化祭が終わったその日、二人きりの教室で、勝己は初めてに触れた。経験のないことに足を踏み入れる恐怖も緊張も羞恥も、何もなかった。壊した端から、また別の筋書きが紡がれていく。そういう感覚で、勝己はまたひとつ新たな経験をたやすく手のうちに収めた。
 言葉などかわさずとも、誰にも言えない秘密があれば、それが恋の契約だった。すでに広まってしまっている噂のおかげで、二人は変に詮索されることなく、なめらかに二人を始めることができた。そして二人はそれなりに平和に、仲良く、それなりのことをして、二人自身をいろどってこられたと思う。
 あの日、勝己がに対して、己れの個性をつかってしまうまでは。

 三年生になりたての四月に起こった事件は、勝己のことを一躍有名にしてのけた。本人にとってはこれ以上なく屈辱的なことだったけれど、世間の評価は総じて真逆で、けれどもその事実もまた、彼をただただ惨めにさせていた。理由はともかく彼の凶暴なまでの機嫌の悪さを、とりまきの友人たちはそれなりに理解して、しばらくは誰も彼に近づかなかった。その遠慮を、は軽々と飛び越えてしまった。まったくもって、最低の悪手によって。

「見て見て、この勝己、写真うつりよくて格好いいよ」

 となりのとなりのクラスから昼休みに勝己のもとへ遊びにきたは、一冊の週刊誌を彼の前にひろげた。それが、彼女なりに彼を励ます行為だったのか、それともまったく彼の気持ちを汲んでいなかったのか。そのときの勝己にはそんなことどうでもよかった。気づいたときには、勝己は騒がしい昼休みの教室の真ん中で週刊誌をぼろぼろに燃し尽くし、の頬をひっ叩いていた。週刊誌を燃やすためにつかった「個性」のなごりが、まだくすぶっているその手で。が声にならない悲鳴を上げて、左頬を手で押さえる。教室はシンと静まりかえった。このときほど勝己は、後悔というものに襲われたことがない。それは、自分を嫌悪する類の後悔だった。自分の個性、自分の衝動、自分の性別。自分にぞくするあらゆるものが、このときばかりは、この上なく醜く思えたのだ。

 勝己はすぐさまの腕をひっつかみ、階段を降り、保健室へ急いだ。けれどもはかたくなに保健室へ行くことを拒んだ。断固とした拒絶だったので、時間の惜しかった勝己はかわりに彼女を校庭の水飲み場に連れていき、体育準備室前の小さな冷凍庫から保冷剤をいくつもかっぱらってきた。慌てふためく勝己とは対照的に、は涙のひとつも見せず、気丈に、むしろ笑っていた。勝己がこんなに焦ってるの、初めて見た。そう言って、は彼の持ってきた保冷剤を頬につけたり、離したりした。

「……悪い」

 それしか言葉がなかった。がゆっくり首を横に振る。どうってことない。そういうポーズだった。

「こんなのすぐ治るよ」
「違う」
「別にそんな、痛くもないし」
「違う!」

 彼女のことを傷つけておいて、彼女がその傷に見合ったそぶりを見せないことに、癇癪を起こしている。ばかか、最低か。だけどそのときの勝己には、のあまりに大きな許しがはかりかねた。水飲み場の流しのへりに腰かけていたが、コンクリートに足をつけ、突っ立って目を伏せていた勝己を覗きこむ。冷たい指先が、勝己の眼もとに触れた。おそらくそこに、彼女は温かい水の溜まりを見つけたのだ。

「あ、分かった。勝己はわたしの顔が好きだから、傷つけちゃったのがこわいんだ」

 くすくす笑って、心配性だなあ、とは穏やかに言ってのけた。気張っていた心臓が、絡まっていた嫌悪の蔦が、どうしようもなくほどけてゆく。の片腕が勝己の背中にまわり、は彼を抱きしめながら、彼に抱きしめられていた。

 おそらくこれが、彼らにとって、恋人としてのほんとうの第一歩だったはずだ。
 恋人というかたちの器のなかに、それらしいものをたくさん詰めこんできた二人が、初めて二人にしか共有できない瞬間をそこに刻んだ。そう言えば、聞こえはいい。けれども勝己にとって、その刻印は、何ほどかの欠如のあかしにほかならなかった。問題なく充たされてきた器に疵がつき、何かがこぼれた。二人は何かを失った。失ったものを探し続ける。それが正しく「恋しい」ということだった。

 もうこれ以上、との関係のなかで、自分は何も失いたくない。そう強く思うようになれば、二人がその先の作法を覚えるようになるのにも、そんなに時間はかからなかった。

 勝己をはからずも有名にしてしまったあの事件以来、彼はとりまきの友人たちとつるむことが減り、独りでいるか、と二人になる時間が増えた。二人でいると、することはだんだん偏ってきてしまう。道草をして、他愛のない話に終始するだけでは物足りない。学生らしく勉強会をしようにも、勝己とでは頭の出来が違いすぎて、互いにとってあまりにも効率が悪かった。ノートをひらいても教科書をひらいても、分かち合うものが極端に少ないとなれば、もう、「真面目」のやる気だって失せていく。

 一学期の期末テストの期間中、勉強を教えてやると言って自分の部屋にを招き、騙しうちのように彼女のことをベッドに押し倒したとき、は大粒の瞳をこぼさんばかりに見ひらいて勝己を見上げた。抵抗されれば、無理強いするつもりは毛頭なかった。それなのにけっきょく彼女は一遍の迷いもなく、迷いあぐねている勝己の行為を受け入れてしまったのだ。

「いいよ、勝己のしたいこと、しよう」

 決然としたの表情は美しかった。不意を突かれたの身体よりもずっと。それが勝己を追いつめた。頬を叩いてしまったことを、悔恨に惑う勝己を、その大きな懐へ丸呑みにして許してしまったときのように、彼女の愛情も覚悟も、分かっていながら勝己は心から信じきれなかった。は自分自身の心よりも、ただ、俺の心を優先しているだけじゃないのか。本当はこんなこと、したくないんじゃないのか。あのとき被った俺の激高がおそろしくて、俺の機嫌をとっているだけなんじゃないのか。初めてのセックスはそんな猜疑心との絶え間ない戦いで、肉体の絶頂感とはうらはらに、あまり気分の良いものではなかった。

 彼女との行為は確かに、漠然とした足りなさのためにあるもので、抱えこんだ疵や罅をうずめ、効果的に二人の足りなさを補ってくれたかもしれない。だけどこの手段はあまりにも特効薬すぎて、ずるしているような気持ちに彼をさせるのだった。もとあったものではない、何か別のもので埋めあわせているだけ。本当に見つけなくてはならないものはほかにあるのに、その探し物を諦めてしまった。そういう切ない気持ちになった。これが前進なのか退化なのかは、今もって分からないのだけれど。



 東京にCMのオーディションを受けに行こうか迷ってる。
 年が明けて、いよいよ高校受験が差し迫った一月。は初詣からの帰り道で、勝己にそんな告白をした。突然なようでいて、突然ではない。勝己は薄々、の興味のゆくえを見抜いていた。自分自身に対しておめでたいくらい無頓着な女。自分の取り柄を台無しにしている女。そんな第一印象をもって接した彼女がいま、己れの手にしているものを、自分なりにつかってみたいともがいている。神妙な心持ちで、勝己は道中の自販機で買った缶コーヒーをぐっと飲み干した。

「やめとけ」

 半分は本心で、半分はかまをかけた。の心を試した。彼女は頬を殴ったときはついぞ見せなかった、ひどく傷ついた表情をして街灯の下に立ち尽くした。だけどそのときの勝己に後悔はなかった。このとき、この場で彼女を傷つけることが、自分の使命だと思っていたからだ。

「……どうして?」
「恥かくだけだろ。ンなことより、ひとつでも偏差値上げること考えろよ。滑り止めもひっかかんねーぞこのままじゃ」
「やりたいことやって恥かくなら、やらないよりずっとマシだよ!」

 やりたいことをやってついぞ恥などかいたことのなかったそのときの勝己にとっては、あまりしたことのない種類の決意ではあったけれど、がそのオーディションとやらに何ほどかのものを懸けていることは彼にも痛いほど分かった。はぁ、と白い息を吐いて、がまぶたをこする。ずっとつないでいたふたつの手と手に、彼女からきつく力がこめられた。

「……わたしも勝己になりたい」

 しぼりだすようにが口にする。勝己になりたい。真夜中の、うっすら積もった雪の街路で、彼女の言葉が明かりを灯す。不安定で、心もとない。大層な意思を見せたかと思いきや、こんな弱々しい、縋るような声で自分というものを見失っている。好きだとか言われるよりもずっと切実な告白に、勝己は戸惑いすら感じた。彼女の愛は、二人、一緒になりたい、等しくありたいという愛なのだ。

「意味わかんねぇんだけど」
「わたしだって、分からない……」

 ならば、自分が持っている彼女への愛は。そういうものがあるのだとすれば。そういうものを、今ここで、に伝えられるのだとすれば。それはきっととは真逆の願望だと思った。正反対の、だけど、ぶつかることのない。あるいはそのふたつの願いが、奇跡的にぶつからない一点を、二人はずっと探し続けているのかもしれない。足りなさの正体。本当の、二人のかたち。

「……お前はお前じゃねえと、俺が困る」

 それが勝己にとって精いっぱいの、不器用な愛の言葉だった。ふざけんな。目を覚ませ。、お前が俺になったら、一体俺は、誰と二人になればいい。これは共鳴するさみしさではなく、分かち合う愚かしさの問題。俺になりたいなんて、そんな不細工な言葉を、お前が吐くなよ。
 こんがらがった想いの迷路の只中で、勝己は必死に沈黙を守った。









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2016.6