4 : great spring




 桜のつぼみがほころびはじめる三月の終わり、は二泊三日の日程で単身東京に向かった。静岡と東京は別にそこまで距離があるわけではない。新幹線を使えば一時間半で着く距離だが、それでもは小学校の修学旅行と中学校の社会科見学と、数えるほどしか東京に行ったことがなかった。誰かさんの意地悪な予言の通り、は撮影中に何度も、要らぬものから必然のものまで、ありとあらゆる恥をかきとおした。そのすべてが財産で、すべてが良い経験になった、と素直に思えるほど、はまだ人間が据わってない。ひたすら厳しさと険しさを感じて、そしてなんとか耐え抜いた、そういう三日間だった。そしてくたくたになって静岡へ帰ってきたら自然と、あの意地悪な予言をした彼に、はたまらなく会いたくなっていた。

 今からお邪魔してもいいですか、と勝己の家に連絡を入れて、ものの十数分後にはは彼の自宅のインターホンを鳴らしていた。勝己とが付き合うようになってから一年半の月日が経ち、二人とももう何度も、互いの家族とは顔を合わせている。が玄関先で挨拶をすると、出迎えにきてくれた勝己の母親は、「ごめんね、あの子まだ寝てるのよ」と申し訳なさそうに眉を下げた。階段をのぼり、部屋のドアをノックしてみても、なるほど返事はない。ごめんなさい、と頭を下げて、は彼の寝床に侵入した。すごい寝相で勝己が毛布とからまり、昼前だというのにぐっすり眠りこけていた。

「おーきて、起きて。お寝坊かっちゃん」

 彼の母親の証言によると、春休みのあいだ、勝己はよく夜通しこのへんの公道を走りまくっているらしい。夜のほうが人通りもなく、気兼ねもなく、思いっきり直線距離を走りこめるのだと言う。宿題も、塾通いも、演習も、何もない春休みだ。せっかくだからこの時期にしかできないことをしようと思っているのだろう。深夜に家を出発し、明け方に帰宅する生活をしているというのが、その無茶な鍛錬の積み方が、彼らしいと言えば彼らしい。だけど同時に、彼らしくない、ともは感じる。走って、走って、走り抜くことで、めずらしく、何かを打ち消そうとしているようだ。には勝己の無茶が、一週間後に迫った雄英高校入学に向けた、彼なりの精神統一のように思えた。

 声をかけるだけではいっこうに目を覚ます様子がないので、とりあえず、は彼の身体をそうっとまたぎ、ベッドの向こうの窓のカーテンを全開にした。春の黄色い陽光が、たちまち部屋の四隅を充たす。それからは慎重に膝をつき、彼のベッドの上にちょこんとへたりこんだ。タンクトップからのぞく勝己の盛り上がった肩の筋肉に触れ、遠慮げにゆすってみると、ぴくりと眉根が反応を示す。かっちゃん、かっちゃん、朝じゃないけど朝ですよー。耳もとできんきん叫びながら、彼の胴体を両手で押したり、引いたり。何度か繰り返したところでようやく、勝己の腕がのいたずらを制するように掴んだ。重たい瞼がうっすらひらく。無防備な勝己がいとおしくて、はつい勢いで、彼の頬に口づけを落としていた。

「おそよう。もうお昼になっちゃうよ」
「……ンで、居るんだよ」
「東京のお土産、いっぱい持ってきたの。それから、」

 眠気を噛み締めながらむっくりと勝己が身を起こしたので、は軽やかにベッドから這い降りて、寝ぼけまなこの勝己の前で得意げにターンをして見せた。紺色のプリーツスカートが踊る。クリーム色の身頃に、さりげなくギャザーの入った袖口、胸もとの細い紐リボン。が身にまとっていたのは、中学までとはまるで違う、洗練されたデザインのセーラー服だった。

「ねー見て、見て。制服やっとつくったの。かわいい?」

 浮かれて何度もスカートをひるがえしているをぼうっと眺めやり、勝己はお腹をかきながら盛大なあくびをした。枕もとに転がっていたミネラルウォーターのペットボトルの、ぬるまった半分ほどの残りすべてを、彼はあっという間に空っぽにしてしまう。小さな咳がふたつ。それでなんとか、勝己は寝起きのがらがら声から脱することができた。

「……お前そこ、滑り止めだろが」
「そーだけどー。制服はいちばんかわいいって思ってたもん」

 われながら能天気だなあ、と思いながらも、は憧れの詰まった制服を着てきゃらきゃらと楽しげに笑ってみせた。真面目に受験勉強をしなかったは、真面目に受験勉強をしていたらぎりぎり入ったかもしれない第一志望の公立にはもちろん落ちた。なので、この春から第二志望にした私立の女子高に通う。制服のかわいさと家からの距離で適当に選んだ学校だったけれど、アルバイトや課外活動にも寛容な校風のようで、にとっては結果オーライだったかもしれない。

「ねー、似合う? かわいい?」

 勝己の手をとり、ぶらぶらと腕を揺らしながら、は執拗に訊きつづけた。勝己が表情を変える。どうやらこれはウンとかスンとか言わないと許してもらわれなさそうだ、と悟ったときの顔だ。勝己はがりがりと寝癖で爆発している髪をかきむしり、ぶっきらぼうに言葉を吐きだした。

「まあまあじゃね」

 二人の間柄にしてみれば、それはかなり上等な一言だった。もともとが「顔しか取り柄がない」なんていう極論じみた一刀両断で始まった二人なのだ。勝己の「まあまあ」は「超かわいい」と同義、と思わなければやっていられない。これくらいの変換はもはやにとってお手のものになっていた。
 まあまあかあ、とは言葉をなぞるように呟いてから、ベッドの上であぐらを崩していた勝己の膝の上に、向かい合わせに腰をおろした。離れろ、とも、暑いとも、重いとも言わない。これはとっても、イイ感じだ。イイ感じのときの、勝己の対応だ。

「雄英の制服はもう届いた?」
「そこにあんだろ」

 の腰に腕を添えながら、勝己はくいっと顎で彼女の背後を指示した。振り返れば、がさっき入って来たドアに取り付けられたハンガーフックに、皺ひとつないぴかぴかの雄英高校の制服がかけられている。グレーのブレザー、深緑のスラックス、えんじのネクタイ。誰もが知る、言わずと知れたひとそろえである。は、ほっと、小さく感嘆の息をこぼした。そして、この制服に袖を通し堂々と歩く彼のことを想像した。そのイメージはなんとも誇らしく、そして少しだけ切ない近未来図だった。

「やっぱりかっこいいねえ。勝己もちょっと着てみてよ」
「はぁ、メンドくせぇ」
「それで、今から一緒に制服プリ撮りに行こ」
「死んでも行かねえわ」

 絶対そう言うと思った。はにこやかに笑みをこぼしてから、勝己の心臓に頬を擦りつけるようにして寄り添った。心地の良い鼓動のリズムに、二人でいるということへの、独特の甘い緊張感が滲んでいる。それはきっと自分も同じだ。はんぶんこだ。二人きりの時間だけを刻む、怠け者の二対のアナログ時計。

「……じゃあ、学校はじまったら、制服デートしてくれる?」

 の上目遣いに、勝己は人知れず胸のつかえを感じた。あまりこういうストレートな甘え方をされたことがなかったので、不意打ちをくらってしまったのだ。もとより、少女漫画から飛びだしてきたような星屑を散らせたの眼が、勝己はあまり得意ではなかった。得意ではないというのは、見つめすぎるとどんどん余裕を吸いとられてしまう、という意味でだけれど。

「そういうこといちいち聞くなや……」

 そっぽを向いて、眠たそうな目をこすりながら勝己が心底面倒くさそうにため息をつく。ああ、やっぱり。今日の勝己はもしかしたら、すこぶる機嫌がいいのかもしれない。寝起き早々こんなにじゃれても、お咎めなしなのだ。いい加減にしろとか、ばかは寝て言えだの、恥ずかしさの手前で吼えたりもしない。はすでに有り余るほどの満足を身体じゅうに抱えて、勝己の胸から顔を離した。

「東京でね、美味しそうなお菓子いっぱい買ってきたんだ。あっ、甘いのだけじゃなくて、しょっぱいのもあるよ。勝己の好きそうな……でね、おばさんがお茶淹れてくれるって。下で食べよう?」

 そう言って、が勝己の膝の上から這いでようとしたとき、脚に力をこめたその一瞬のバランスの不安定さを突いて、勝己は彼女の背中をベッドにやわらかく縫いつけた。勝己の温もりが残る、肌触りのいいアイスグレーのシーツの上。思わず一本、とでも叫びたくなるような流れるような身のこなしで、なんだか今日はいろいろなことが笑えてきてしまう。何もかもだめな日もあれば、こういう日もある。すべてのものがプリズムの光に満ちて、わたしたちなんて無敵の恋人たちだろう、と思う日も。

「菓子の前にお前食わせろ」
「だぁめー」

 冗談を言った勝己の身体がにのしかかり、彼女は肩を抱かれながら、ぎゅうっと彼の全体重にプレスされる。なあにその物騒な誘い方。けたけた笑えば笑うほど、の胴体はベッドに押しつけられた。そうやって密着していると、勝己の寝起きの体温や、かわいい匂いが全身をめぐる。差しこむ正午の春陽も、めずらしい勝己のご機嫌も、彼の眠りのあとを五感に擦りつけられている今この行為も、一切が輪をなしてを匿ってくれているようだった。思考のピントが合わなくなり、頭の芯がぼやけてくる。はあちこち鼻の頭で触れるような勝己の顔の動きから、逃れるように首を逸らして、目を閉じた。

「ん、やだ勝己、ほんと皺になる……」

 二人の隙間で新しい制服のうわべが早くももみくちゃにされている。由々しきことではあるけれど、由々しきことというのはなかなかどうして、気持ちの良いことでもある。はけっして男に勘づかれないようさりげなく、脚と脚のあいだを擦り合わせた。

 この体勢でがっちりと抱きしめられたままでは、視線を合わすことはかなわない。耳の裏で名前を呼ばれ、は熱っぽい水のなかから引き揚げられるようだった。目覚めの呼びつけ。囁き声。はゆっくりと数度、涙を仰ぐようにまばたきを繰り返す。

「お前のクソ棒演技、楽しみにしとくわ」

 ――楽しみにしとくわ。

 勝己の身体がから離れていく。案の定というか、当然というか、の制服は煽情的に乱れていた。ただ、熱を押しつけられていただけなのに、はこの瞬間、自分がすっかり犯されてしまったのだと感じた。骨の髄まで。
 口の中にはもう何も、じゃれつく甘い言葉は残ってない。「がんばれよ」も「おめでとう」も「よかったな」も言わなかった男が、ほんの戯れにでも、「楽しみにしとく」と言ったのだ。の夢のかけらのことを。
 なんにも、何も、二人は変わってない。
 それなのに喉が焼けつくほど、指が震えるほどの快感を覚えている自分が、はおそろしかった。
 勝己から、自分が何を引き出せるのか。幸福の鍵はいつも、そんなところに転がっている。









←backtopnext→

2016.6