5 : please stand by




 楽しみにしておく、なんて、格好はつけてみたものの。

 正直なところ、テレビ画面にの姿が映っているという事態を、その姿を何百万もの人間が目撃しているのかもしれないという事実を、勝己は「楽しい」だとか「嬉しい」だとかいう単純な気持ちで受け入れることはとうていできなかった。

 そのCMがいよいよ流れはじめたのはちょうど雄英体育祭という世間的な一大イベントが幕を閉じ、勝己が東京のヒーロー事務所へ職場体験のため赴いているころだった。退屈なルーティンの見回りに同行させられているとき、勝己は、渋谷のスクランブル交差点の大型ビジョンで、の出演するCMを初めて目にした。彼女の初仕事との出逢いがそんな大それた場所でのことではなかったら、もう少し勝己は平静を保てていただろうか。それは本人にも分からない。彼は己れの心臓の高鳴りを苦々しく思いながら、のことを見上げていた。釘づけだった。
 別に有名な俳優や、大人気のアイドルと共演しているわけじゃない。ストーリー仕立てになっていて、ことさら彼女の存在が主張されているわけでもなく、台詞のあるエキストラのような扱いだった。オンエア期間は二週間もない。消費のため、消費されるだけの三十秒。それでも、の演技は、勝己の記憶のなかのそれよりも、ずっと自然で魅力があった。たかだか三十秒。されど三十秒。そこに確かな世界があった。

 焦る。こんなことで焦っている自分に腹が立つ。

 五月初旬の体育祭で優勝してからこのかた、勝己は絶えず何かにつけて苛立ってばかりだった。高校生活が始まって二ヵ月、勝己も、も、まだお互いに自分のことで手いっぱいの毎日が続いている。あるいはこれから先、二人はずっとこのままかもしれない。そういう、漠然としたむなしさや不安のようなものがいつしか胸に充満していた。勝己にとって高校の三年間はモラトリアムではない。一瞬一瞬が、将来に直結している。で、四月に小さな事務所に入り、細々と東京に通って雑誌の仕事をするようになった。勝己にとって唯一の休日である日曜日にも、二人がなかなか会えないのは、そのせいだ。
 会えないなら、会わないなら、この関係は一体なんなんだ。勝己は時おり、苛立った思考回路のままそんなことを考えた。大事なのは、会いたいのかどうか。そんな当たり前のことすら抜け落ちてしまっている、不自由な頭脳で。



「そいでね、こないだ体育祭で優勝したひととって同中だったよねって言われて、なんかそっから入られると自分から彼氏だって言いにくくなっちゃって、クラス一緒だったよって、そしたらミホちゃん……あ、となりの席の子がね、仲良くしてるんだけど、ミホちゃんが雄英のひとと合コンしたいって言いだして、みんな盛り上がっちゃって、絶対むりだと思うって言ったんだよ? でも、いいから聞くだけ聞いてみろって……女子高ってテンション高いね……あ、で、もしちゃんとできたら、中間テストの全力サポートしてくれるってみんな言ってくれて、わたし、土日に東京行ったりしてると平日も全然余裕なくて、早くも落ちこぼれ気味だからさ……勝己がどうこうじゃないの全然、けど、なんかそういうの興味あるひとがいたらってことなんだけど……」

 夕方のコーヒーショップの穏やかなざわめきを上塗りするように、延々と続くの話を、勝己はだんだんどこまで途切れず進んでいくのだろうという呆れた興味をもって聞いていた。がひたすらひとりで話すのは、勝己があまり相槌を打たない、まったく聞き役に向かない人間であることも一因なのだが、彼に言わせれば、の話には口を挟むほどの内容もないのだ、たいていの場合。
 ようやくひと区切りがついて、は、「今の説明で分かったかな……?」と心配そうに尋ねてきた。一応、自分が説明下手だという自覚はあるらしい。勝己は退屈そうにテーブルに頬杖をついたまま、「大体は」と素っ気ない返答をした。

「うん……ということなんだけど」
「断る」
「だよね……」

 今に始まったことではないが、の話は要領を得ず、起承転結がなく、だらだらと長い。嬉しい話だったら感情が前のめりになるし、ばつの悪い話だったら歯切れも悪くなる。だけどそこはもう慣れというもので、勝己の頭は勝手にの会話を要約して捉えている。長ったらしい説明は基本的にどうでもよく、要は合コンの相手になるような男をコッチで集めてほしいという依頼の持ちかけだ。当然のこと、勝己がそんな任務を引き受けるはずがない。もそんなことは分かっていて一応の話だったのに、この出来レースのためにどれだけの貴重な時間をつかっただろう。合理性のかけらもない。と、そこまで考えて、勝己は自分の考えを打ち払った。毒されている。合理性なんかのためにと顔を合わせていたことは、今まで一度もないはずなのだ。

「中間の山ハリ報酬は魅力的だったんだけどなぁ」
「知るか、テメェでなんとかしろ」
「うーん、あんまり自信ない……」
「気合い入れろや」
「根性論?」

 力なくは笑って、カフェモカの上に乗ったホイップクリームをスプーンで丁寧にすくい、口に運んだ。
 なんだかんだ、ゴールデンウィーク明けの体育祭が終わってからと会うのは今日が初めてだった。とはいえも勝己も、互いにテレビ画面越しにはそれなりに顔を合わせていたのだけれど。勝己はともかく、は、テレビ越しに見るのとはだいぶ様子が違った。髪型と化粧を少しいじるだけで、女はまったく雰囲気が変わる。勝己にとっては今、目の前にしているのほうが見慣れているはずなのに、ここ最近はCMのほうがやたら目について、不思議な気持ちにさせられているのだ。誰だこいつ、とまではいかないにしても。

 「あのCMどうだった?」とCMのオンエアが始まったころ、は勝己に電話で尋ねた。そのとき勝己は、新しい制服を彼女に見せられたときのように「まあまあ」だと答えた。勝己の「まあまあ」には色んな含みがあるが、おおむねそれは、表現するに足る感情が喉もとに溜まっているのに、それを口にするのが憚られるときに使う一言だ。そっか、と返したの声は少し、さみしげだった。口にできない、したくない、と自分の都合でわがままを言ってはいられない感情もある。分かっていても、そういうときほど、言葉を紡ぐのは難しかった。

「雄英もテストもうすぐなんだっけ」
「あー…余裕」
「だろうね、だろうね」

 の呑気な声が耳にこびりつく。彼女は長細いスプーンで冷たいカフェモカをかき混ぜ、残りのクリームをそのなかに溶かした。よくそんな甘いものを飲めるなと思う。逆に、は勝己の飲むブラックコーヒーを一口だって飲めやしないのだ。

「勝己はすごいからなあ、相変わらず。雄英でも勉強できちゃうし、体育祭も宣言通り優勝しちゃうし」

 何をいまさらというようなことを改まって言われても、彼にしてみれば反応しようもない。別にそれは嫌味でも妬みでもなく、裏も表もない、彼女にとってこの上なく素直な勝己への賛辞だ。返す言葉を探してかすかに揺らいでいる勝己の瞳を、はまじまじと見つめた。こうしてみるとは少し、あか抜けたかもしれない。それとも新しい二人の距離が、二人に今までとは違う世界を見せているのだろうか。

「……全国のひとが勝己のこと知ってるんだって思ったら、不思議な気持ちになる」

 お前が、お前も、それを言うのかよ。勝己はなんとも言えず、唇を噛み締める。
 だいたい体育祭のこともこうずっと持ち上げられるのは勝己にとって腹立たしいことなのだ。一位になることを望みはしたが、優勝すること以上の結果はありえないが、現実のそれは求めていたものとはまったく質の違うものだった。苛立ちの根っこにその食い違いがある。にはこの気持ちが理解できるだろうか。は、こわくてなかなか見られない、と言って最後のトーナメントの格闘戦をまだちゃんとは見てないようだ。その気持ちは、初めこそ食い入るように見たものの、あれ以来、家のテレビで、街中のビジョンで、ネット広告で、偶然あのCMにでくわしたとき、つい目を逸らしたくなってしまうあの感情と似たものなんだろうか。似たものどうしで、お互いに相手から顔を背けてる。もしそうだとしたら、揃いも揃ってどうしようもない態度だ。

「ねーねー。おにーちゃん、ゆーえーのばくごーでしょ?」

 なんとなく気まずい沈黙が訪れそうになったとき、横から突然、勝己は間の抜けた声をかけられた。はっと視線を動かす。声の主は、椅子に座っている勝己よりもずっと背が低かった。オレンジジュースを片手に、もう一方の腕には色紙とサインペンを抱えている。年のころは、小学校の低学年ぐらいか。後ろからすぐさま、母親とおぼしき女性が「こら!」と叫びながら、飛んでくる。

「サインちょーだい! かっけーやつね」
「は? ンだこのガキ……」
「すみません! この子、体育祭みてすっかりファンになってしまって……」

 思った以上に申し訳なさそうに母親に頭を下げられて、勝己はどうにもばつが悪かった。声をかけられるのも、じろじろ見られるのも、今に始まったことではない。雄英の制服を着ていると、さすがに勝己はよく目立つ。かといってサインや握手に応じたことは一度もなく、いつもなら無視をきめこんで逃げてしまうのだけれど、こんな場所で声をかけられたらどうにも逃げ場などなかった。

「ヒーローも人気商売だよ、勝己」

 ことのしだいを見守っていたが放った、彼を諫めるようなその一言が決定打となり、勝己はちっと小さく舌打ちをしてサインペンを子どもからひったくった。ヒーロー然とした態度とは程遠いが、勝己はこうして生まれて初めてのサインを書いたのだった。コードネームもまだ持っていないひよっこの、そもそもプロのヒーローになれる保証もない若輩者の、殴り書きのような本名のサインを。売るんじゃねーぞ、と言って勝己が少年の頭に色紙を乗せると、彼はなんとも大きなはきはきした声で「ありがとうございました!」と嬉しげに叫んだ。

 ――あのおねーちゃん、きっとばくごーのおんなだよ!
 ――もう! 一体どこでそんな言い方覚えてくるの……

 自動ドアの向こうから聞こえてくる親子の声が、ちゃっかり気まずさだけはもと通りにして街中へと消えていく。勝己が視線をはずしたあとも、は消えてしまった親子の背中を、遠い目をしてしばらく雑踏のなかに見据えていた。

「……わたしは“爆豪の女”かあ」
「……あ?」
「んーんーなんでもない」

 言いたいことを、言わなくてはならないことを、ひとつも言わないままに刻々と二人の放課後が過ぎていく。次にと会えるのは、に心置きなく触れられるのはいつだろう。彼女がごまかした先の言葉なんてまったく気に留めてないふりをして、勝己は不透明な近い未来のことをコーヒーを啜るように少しずつ静かに考えた。









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2016.6