6 : orange




ちゃん、映画に出てみる気はない?」

 透明なみどり色をした炭酸水の上に、半円形のバニラアイスと缶詰の赤いさくらんぼがひとつ。今年初めて口にするの大好物。まるで食品サンプルのようなクリームソーダに幼子よろしく気をとられていたせいか、はその唐突な誘いの言葉にうまく反応することができなかった。

 六月の終わりの蒸し暑い土曜日の昼下がり、おしゃれでもなんでもない地元の喫茶店はすっからかんで、店内に小さく流れているラジオの音がやけにくっきりと聞こえていた。簡単な昼食をとり終わった、向かい合わせの二人。大事な話があるからとわざわざ東京から出向いてきたのマネージャーは、とうとうその「大事な話」を切りだして、ふっと静かに息をついた。口のなかに入れたバニラアイスを飲みこむのも忘れ、の舌に安っぽい甘味が根づくようにひろがっていく。

「撮影の時期は七月下旬から一ヵ月。全編ロケで、基本は京都」
「……きょう、と」
「ごめんね、先方の都合で急だけど。でも悪い話じゃないし、むしろふつうなら回ってこないような、なかなかいい話だよ。すごいねえ。あのCMもけっこう評判よくって……」

 彼女の話によれば、その映画というのはまだ新進気鋭の若手監督が手がける初めての商業映画で、主要キャストのひとりが急遽欠けてしまったことで代役を探しているところなのだと言う。撮影まで時間がないせいで、話がたらいまわしになって、のところまでめぐってきた。芸能界の事情だとか評判だとか話の良し悪しだとか、四月に小さな事務所に入ってからファッション雑誌の細々とした仕事しかしていなかったには分からないことだらけで、聞いたはしから戸惑いの種になっていく。仕事といっても、ほんのバイト感覚みたいなものだったのだ。それをいきなり、にしてみれば重たい役目に違いなかった。頭がしっかり働かない。だけどそんなこと構いもせず、興奮気味のマネージャーはどんどんと話を先にすすめた。

「とりあえず台本読んでみて。わたし、もう行かないとだから、返事は後日また」

 薄いオレンジ色のカバーのぶ厚い冊子と一枚の千円札をとりだして、マネージャーは慌ただしく席を立った。親御さんともよく相談してね、と念を押して。

「ありがとうございます……」
「あっ、そうだ。軽いキスシーンあるけど、大丈夫だよね? まあ、フリだから」

 店のドアがひらいて、閉じて、チリンチリンとベルがわりの風鈴が夏の音を奏でる。こめかみを痺れさすアイスの冷たさも、喉をとおってゆく炭酸のこそばゆさも、嵐のような混乱を解いてくれはしない。いましがた聞いた話がパズルのピースみたいにばらばらに崩れて、脈略なく、順序もなく、頭のなかによみがえる。どこまでもその、繰り返し。冷房の効いた店内にぽつんと取り残されて、はなんだか目の前に居座るオレンジ色の表紙がおそろしいような気さえして、なかなかそれを手にとることもできなかった。

 とぼとぼとひとり歩いて帰宅して、はすぐさま自分の部屋に閉じこもった。母親は居間でテレビを見ていたが、声をかけることはできなかった。ベッドの上に仰向けになって、足りない頭で考える。半年前の自分がなぜ、何も知らない世界に足を浸してみようと思ったのか。これからの自分は一体、何をめざしているのだろうか。ひとりでうんうん唸っていてもあまり有益な答えはでなかったけれど、自分の過去や将来のこと、したいことやしなくてはならないことについて考えているうちに、心は静かに落ち着きを取り戻した。そしては、一冊の台本をめくった。貰ったばかりのオレンジ色の台本ではない。勉強机の引きだしに大切にしまってあった、ぼろぼろの台本。懐かしい物語。

 二年前の夏、自分は変えられた。
 あれこそがほんとうの嵐だった。十六年の人生で、たった一度きりの。



 六月の陽は長く、夕方のニュースが始まっても、空の色はまだ変わらない。それでも機械的に五時のチャイムは鳴る。「もうおうちへかえりましょう」と子どもたちを急かして。その哀しげなメロディーに紛れて玄関からがちゃがちゃと音がして、まるで自分の家のように、はためらいなく居間から廊下へと出た。

「勝己、おかえり」

 驚かすつもりはなかったけれど、気恥ずかしさが勝ってしまって、「驚いた?」とはついどうでもいい言葉を付け足した。靴を脱いでさっさと二階へあがろうとしていた勝己は、面食らったというよりも、あきれ果てているような顔をしている。それもそうだ。約束も何もなく、カノジョに自宅で出迎えられたのだから。

「……俺は帰る家を間違えたか」
「あ、さっきまでおばさん居たんだけど、買い物行くって留守番頼まれちゃったから……」

 色々と突っこみどころはあるのだろうが、かかずらうのも面倒なのか、勝己はけっきょく何も言わずに階段をのぼりはじめた。雄英高校のヒーロー科は土曜日でも六時間目まで授業が詰まっている。昼食をとってからずっと部屋でごろ寝できてしまうような、ぐうたらの高校生とは一味もふた味も違うのだ。土曜日も一日おつかれさま、という気持ちで、は控えめに勝己の後ろをついていった。勝己が自室に入ると、彼女も一緒にするりと部屋へ忍びこむ。ベッドの上、デニム地のクッションをひとつ腕に抱えこみ、はぱたぱたと脚を泳がせた。

「おじいちゃんとこのアンズね、去年少しお裾分けしたら喜んでもらえて」
「うちじゃ食べきれないし、今年はたくさん持ってきたんだ」
「そのままでも美味しいし、ジャムにするのもいいよ。勝己は甘いの苦手だろうけど……」

 がひとりでだらだらと話しているあいだに、勝己はさっさと制服を脱いで適当なTシャツとハーフパンツに着替えていた。脱ぎ捨てたシャツをひろって乱暴にドアを全開にする。はクッションを放り投げ、また慌てて勝己の後ろに続いた。いつもならこんな鬱陶しいまねはしない。ただ今日は彼女にとって勝手が違う。窺っていたのだ、打ち明けるタイミングを。誰よりもまず、彼にあの話を。

 階下に降りた勝己が制服のシャツを洗濯かごに突っこみ、洗面台の前に立ったとき、ついには深く息を吸いこんだ。勢いよく溢れる水の音に、背中を押されるようにして。

「……あのね、勝己、ちょっと話があって」
「あーはいはい、あとで聞く……」
「……疲れてる?」
「はァ?」
「あ、ううん。なんでもない」

 ようやく決心がついたのに、洗面所の鏡ごしに勝己と目が合って、はすんなり彼との会話を諦めてしまった。疲れているときや、神経が高ぶっているときの勝己は、いつにもまして攻撃的な性格になる。そのうえで「疲れてる?」なんていう、心配でもしているような声をかけてしまった。勝己は、その手の言葉が大嫌いだ。今日はもう、やめたほうがいい。勝己の鋭い目つきには瞬時に気圧されてしまった。
 ところが、が諦めてしまった途端、勝己は背を向けて洗面所から出ていこうとしたの腕を拘束した。びくともしない手のひらの握力で前腕を掴まれて、は目をまるくして彼を振り返る。

「何だ? 言え」

 それは命令だった。従うしかない、彼独特の威圧感のこもった。ためらう余地も与えられない口調だったので、は説明下手の頭をフルにつかって、できるだけ分かりやすく、つとめて手短に昼間の喫茶店で伝えられた映画のことを話すしかなかった。ひとつひとつ、思いつくかぎり。最後にマネージャーが付け足して言ったことも、ぜんぶ。
 夏休み、二人でどこか行きたいな。夏服を着はじめたころからそう言ってずっと浮かれていたことが、にはとても遠い記憶のように感じられる。高校に入ってから色んな迷いがあった。くだらないものも、かけがえのないものも、自分のことも、彼とのことも。何度も視線をずらして言葉を紡ぐを、勝己は一度も目を逸らすことなく見つめていた。腕をゆるく掴んだままの距離で。狭い洗面所、クーラーがついているわけでもなく、立ちっぱなしの二人の背中には少しずつ不快な汗が滲んでいく。

「で?」

 話を聞き終えた勝己の最初の一言が、たったそれだけの一音が、この状況のままならない不穏さをすべて表し尽くしていた。その不穏さが、の内側で心臓に引っかかり、擦り傷のような痛みと熱を発している。

「お前は俺がやれっつったらやって、やんなっつったらやんねえわけ?」

 掴まれていた腕にだんだんと力がこもり、そこに傷口のような熱が溜まっていることに気がつく。「迷ってる」だとか「どうしよう」だとか「できるかな」だとか、心の不安をそのまま口にしたつもりはにもけっしてなかったはずなのに、そのすべてがすでに勝己の手のうちに移っていた。見透かされたのだ。あるいは、優しく気づいてほしいという、身勝手さの滲む甘えさえも。

「……別にそういうつもりで話しにきたんじゃ、」
「安い夢だな」

 シンプルで頑丈な勝己の言葉の厳しさに、かっとの頭に血がのぼる。恥ずかしさからか、悔しさからか、哀しさからか分からない。ただはっきりとした怒りが渦巻いていた。勝己自身が、本心に上乗せして、一時の苛立ちに任せて牙を剥いていることがには分かったからだ。

「……そりゃ、勝己に比べたらわたしなんか……でもわたしだって、少しでも勝己に、」
「そういうのがいちいちウゼェっつってんだよ!」

 が勝己にこんなふうに面と向かって怒鳴られたのは二度目のことだった。一度目は、勝己がの頬をひっ叩いたときだ。自分から彼女を傷つけておいて勝己は、怒りを見せようとしないに対して深く苛立った。だけどあのとき、は何か感情を我慢していたわけじゃない。勝己がこわいから、勝己の機嫌をとりたいから、勝己のことが心配だから、彼を責めなかったわけじゃない。悪いのは自分だと、本心からそう思っていたのだ。彼の夢を茶化してしまった。きっとそういうことだった。あの一撃で、は、己れの浅はかさを突きつけられたような気がしたのだ。

「俺と張り合えりゃ満足か? なぁ、

 急に腕を引っ張られは半歩ほど前のめりによろめいた。鼻と鼻がぶつかりそうな距離で、ぎらぎらとした勝己の眼がを怯ませる。彼がかすかに笑っていたから。面白いことなんて何もないのに。

「京都でもどこでも勝手に行けや。キスでもなんでもすりゃあいいだろ。それが仕事だもんな、女優さん」

 うまく言葉を呑みこめなかった。それでもとっさに動くことはできた。どんなたぐいのものであれ、悪意ほど心を敏感にさせるものはない。勝己に拘束されていないほうの手で、その手のひらで、は自分がかつて勝己にそうされたように彼の頬を叩いた。叩いた途端、きつく握られていた腕も解き放たれて自由になる。目じりから涙がとめどなく溢れ、何もかも台無しだと思いながら、は熱い呼吸を繰り返した。

「なんで、よけないの?」

 避けられるはずのものを。こんな素人の一撃を。目を伏せた勝己の表情は、髪の毛に隠れて薄暗く、見てとれない。玄関から物音がして、勝己の母親が帰ってきたのだろうということは分かっていたのに、二人ともしばらく泥のようなこの瞬間に足をとられて身動きがとれなかった。

「……さんざん言って、叩かれるなんて、ずるいよ」

 は指と手の甲をつかって流れてしまった涙を乱暴に隠すと、何も言わない勝己を置いて踵を返した。
 廊下には天窓のかたちに切りとられた光が差しこんでいた。いつの間にか、もう、今日という一日の終わりを告げはじめているその陽射しは、真昼の喫茶店でが受けとったあの台本の表紙と同じ、淡いオレンジの色をしていた。









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2016.6