7 : diary lovers only




 一学期の期末テストが始まるまであと二日。
 今日の授業がすべて終わっても、爆豪勝己はまだ校舎のなかにとどまっていた。この様子じゃおそらく最終下校まで帰れそうにないだろう、と勝己は目の前でうんうん唸りながらプリントと向き合っているクラスメイトを見て思う。たかだか一学期分の筆記試験に、一体何をそんなに頭を抱えることがあるだろう。なんど教科書をめくってみても、勝己にとってそれはもはや、退屈なだけの英文の羅列に過ぎない。特大の溜め息だって出てしまうというものだ。教えてやるとは言った。確かに言ったが、ここまで出来が悪いとは聞いてねえぞ、クソ髪。

 校内の食堂はもうとっくに店じまいしていたが、下校まで場所としては開放されていて、勝己たちはその隅っこの数席を二人で陣取っていた。周りにも同じような勉強会のかたまりがいくつも見渡せる。勉強してるのか、だらけているのか、高い天井には生徒たちの声がざわざわと反響している。それがどうも耳障りで、勝己はさっきからずっとイヤホンを耳に突っこんでいた。スマートフォンで戦闘訓練の参考になりそうなプロヒーローの動画を適当に漁る。とはいえ映像はただただ目の前を通り過ぎていくだけだった。耳にうるさいざわつきからは逃れられても、胸をざわつかせる感情からは、ずっと逃れられないままでいるから。

(なんで、よけないの?)

 はたから見れば、ヒーローを志す者としての勝己は、最高峰の教育機関のなかでも最高水準の成績を叩きだしている、間違いなく将来有望な生徒の一人だろう。その自分の才能に、自分の能力の現在地に、追いつかないのだ。自分の心が、いまだ。それはもちろん己れの責任だし、一応の自覚だってある。だけど、自覚があったところで一朝一夕にどうこうなる問題ではない。肉体の鍛錬と、同じことだ。
 あの日の自分の苛立ちと疲労はこの場所で蓄積したものだから、ぶつけられたにとっては理不尽だったに違いない。だからって、自分自身にとっては、根っこのところできっと何から何まで切り離せない。そういうものだ。心はひとつしかない。だから右往左往と感染する。張り手をくらったのは、別に、懺悔の気持ちがあったからじゃなかった。つうか、よけられるわけ、ないだろ。できるわけない。あんなでたらめな態度を晒して、支配するように怒鳴りつけ、そのうえ泣かせた女の張り手をかわすなんて。

(……あー、くそ……)

 あれから一週間経ったが、二人はちっとも進んでない。電話もなければ、メールもない。当然、顔も合わせてない。勝己も、分かってる。自分からそれらをしないといけないということ。謝らないといけないということ。分かってるからこそ、焦る。追いつけないことに。そこにまだ、手を伸ばせないことに。

 動画が途切れ、次の動画をタップしようとしたとき、乱暴にすべらせた親指が動画投稿サイトの視聴履歴のタブをひらいてしまった。すっとタブを何度かスクロールして降りていくと、ひとつ、毛色の違う動画がある。それはいつぞやが勝手に再生して、勝己に見せた、あのCMの動画だった。ネット限定の、一分尺のものだ。勝己はそれが大嫌いだった。三十秒の世界のその先で、片恋の物語が続き、最後にが知らない男の背中に向かって「大好き」などと叫ぶからだ。

「っし、できた! バクゴー先生添削おねがいしゃっす!」

 だけど、今。なぜだか勝己は吸いこまれるようにその動画をタップしていた。イヤホンから溢れるの声。小さな画面の向こうで動くの姿。いつ見てもまぶしくて、どうしたって、痛みが走る。もうとっくにオンエアの終わっているそのCMを、勝己は過剰に懐かしい気持ちを抱えてじっと眺めていた。差し出されている英作文のプリントに気づけないほどに。

「熱心になに見てんだ?」

 あまりに自然に向かいの席から手が伸びてきてスマートフォンを奪っていったので、勝己はめずらしく完全な虚を突かれた。切島がむりに引っ張ったせいで、するりと勝己の両耳からイヤホンが抜け落ちていく。

「っ、てめ」
「――ああ、これな~。知ってる知ってる。なにげにかぁいーんだよな、このCMの子。名前知らんけど、俺、けっこうタイプ」

 ぺらぺらといつもの調子で切島が話していることが、まったくいつもの話題とはかけ離れたところにあって、勝己は勝手にスマートフォンをとりあげられたことをどうこう言う気すら起きなかった。かわいい?タイプ?そんな浮っついた言葉が出てくるような会話、一度もしたことねーだろが。しかもその対象が、ほかならぬなのだ。あきれてぽかんとしている勝己をよそに、切島はきれいに笑って彼にスマートフォンを返した。勝己とは正反対の、持ち前の爽やかで明るい性格。切島は頬杖をつき、さらに無駄話を続けていく。

「爆豪もその子、好きなん?」
「は、」
「いやーお前もそういう感情あるのな、安心するわー」

 好きじゃねーよこんな女。呑気な切島の言葉にそう言い返そうとして、勝己はすんでのところで喉を詰まらせる。ああ、こういうところが。なまじ頭の回転が速いせいで、また短気な性格もあいまって、勝己は間髪入れずに他人の言葉を突きっ返してしまうきらいがある。どんな長ったらしい話でも頭が自動的に処理し、短くまとめあげ、そして勝己自身がその要約をけっして疑わない。自分の頭脳に自信があるから。だけど、それで本当にいいのか。例えば現代文のテストなら、それで満点の解答が書けよう。けれどもの、のあのときの話は。しどろもどろなりながら、行ったり来たりしながら、大事そうに伝えられた言葉たち。反復や言い間違い、吃音、声の強弱、すべてに意味があったはず。他人の心はきっと、無機質に、勝手に、自分の理解できるかたちに切り刻めるものじゃない。

 三色ボールペンをペンケースから取りだして、勝己は英作文の答案に目を落とした。しゃくしゃくと文法とスペルの確認を進めながら、頭の隅でまったく別のことを考えている。勝己が思いだしていたもの。それは、数ヵ月前のホワイトデーのことだった。



 その前のホワイトデーも、の誕生日も、クリスマスも、一年半も付き合っていればひととおりイベントは通り過ぎていくが、勝己はそれまで一度もにプレゼントらしいプレゼントをしたことがなかった。せいぜいコンビニで何かを買い与えるとか、その日の昼食を奢るとかそのていどで、あらたまってするような恋人の行事が苦手な勝己は、大切な一人のために何かを選び、何かを贈るという行為を、ずっとうやむやにしていたのだ。
 中学卒業間近の三月、勝己はふと思い立って近所の文具屋に足を運んだ。ろくに店内を歩き回りもせず、ほとんど直感で適当に選んだのはシンプルな赤い手帳だった。勝己はバレンタインのお返しということで、初めて恋人らしいイベントに乗っかってそれをに渡した。たとえ気まぐれの産物だとしても。

「やる」

 三月十四日を迎え、二人で並んで歩く帰り道の途中、何を言うでもなくぶっきらぼうにその包みを手渡したが、はそれがどういう名目で自分に差し出された贈りものなのかすぐさま気づいてくれた。

「今年も食べてやるだけ感謝しろー、じゃなかったの?」

 がからかったのは、一ヵ月前の勝己の態度だ。勝己は甘いものが得意ではなかったから、たとえそういうアテがあったとしても、以外からはチョコレートを受けとらなかった。去年のバレンタインによりも先にほかの女生徒からチョコレートを押しつけられてしまい、えらく彼女が機嫌を損ねたので、もう今年からはそういうことにしたのだ。勝己の味覚の好みを知っていても、二月十四日のは正攻法だった。「今日はチョコレートじゃなきゃ意味ないんだもん」と言って、今年も勝己のために嬉しそうに手作りのチョコレートを用意してきた。

「要らねえんなら別に」
「いりまーす」

 もう片方の手のひらで小さな爆炎をつくって紙包みにかざすと、はくすくす笑って勝己の手からそれを受けとった。開けてもいい、とがはしゃいで聞くので、勝己は黙ってうなずく。二人は帰りしなの公園に入って、適当なベンチに腰を降ろした。
 なんだってきっとは喜んでくれる。そう思えば気は楽なはずなのに、それでも自分が贈ったもののゆくえを見届けることは、こんなにも緊張する。リボンをとり、ギンガムチェックの包みを慎重にひらいて、は初めてのプレゼントに顔じゅうをほころばせた。

「わぁ、手帳だ。かわいい」
「お前の足りない記憶力の埋め合わせに使え」
「もう、すぐそういうこと言うし」

 すべすべとした赤いソフトカバーの表紙をはいたわるように指先で撫でた。なんの変哲もない赤い手帳を、そうありがたがられてもなんだかこそばゆい。どうしてこの手帳が目に留まったのか。どうしてこの手帳をに渡したいと思ったのか。勝己はそんなことをいまさら考えて、そして、思いがけずその答えをから教えてもらったような気がした。このとき、の笑顔と、言葉によって。

「じゃあ、勝己も埋めてよね」
「あ?」
「高校生になっても、勝己との約束、ここにいっぱい書きこみたいもん」

 あれからはあの手帳を肌身離さず持ち歩いて、まるで日記のようになんでも日々のことをしるしている。勝己はそれを一度、見せてもらったことがある。色とりどりのカラーペンで書きこまれた文字、スタンプやシールを駆使した装飾。勝己との約束がある日を、はピンク色の蛍光ペンで括っていた。ご丁寧にハートのシールまでつけて。二人が逢うことは今や、特別なことなのだと思わされる。だからこそ、自分はにこの手帳を託したのかもしれない。ひとつのお守りとして。二人が二人であるということを、証明するものとして。
 一ヵ月ものあいだ静岡を離れてしまったら、のあの赤い手帳の夏のスケジュールは、一体どんな色に染まるのだろう。



 なめらかに動いていた勝己の右手がふと、ためらう。離れていってしまうのはお互いさまで、悪いことでもないし、誰が悪いわけでもない。今までのようにだらだらと、当たり前に二人ではいられないというだけのこと。どうしようもないこと。その変化にいつまでも苛立って、ぐずって、いつか本当に、あの手帳から二人の記念日たちがひとつ残らずなくなってしまったら。それは、どうしようもないことじゃない。どうにかできたのに、しなかった。できなかった。きっとそのときは、そんな虚しさだけが残るのだろう。

「……切島」
「ほいほい」
「何度も同じ間違いしてんなテメェ」
「げっ、マジか!どれ……」

 あ~この綴り、ほんと覚えらんねえ!
 赤で直しの入ったプリントを返され、たったひとつのスペリングミスに大げさに悔しがっている切島を見ていると、なんだかほっと気が抜けていく。テスト問題のようにくっきり赤いマルやバツがつくような、そんな分かりやすい問題はとのあいだにはひとつもないけれど。

 勝己は放ったままだった青いイヤホンをスマートフォンに巻きつけながら、人知れず心を決めた。今は独り、期末テストを必ず納得のいくかたちで終えて、そうしたら自分からに会いに行こう。
 同じ過ちは、二度としない。









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2016.7