8 : is beautiful




 肌寒いぐらいの冷房をつけて閉じきった部屋にじっとしていると、大きな金魚鉢のなかに一匹飼われているさみしい金魚になった気分になる。西向きの部屋に夕暮れが訪れるころ、レースのカーテンがまだらな光をフローリングの床に落とすからだ。冷たくて、明るい。独りだけの静か。
 床にひらいたキャリーケースはまだ全然、詰められていない。ベッドにはTシャツ、下着、タオル、色んなものが散乱して山になっている。何もかもが中途半端な散らかった部屋の真ん中で、は作業もせずに手帳をぱらぱらとめくっていた。勝己がに贈った赤い手帳。時間や待ち合わせ場所の書きこみをなぞるだけで、日記でも読んでいるみたいにその日の二人のことが頭のなかによみがえる。だけどいつか、こんなに鮮明に思いだせるあれこれも、まんべんなく霞んでいく日がくるだろう。だからこその、記録だ。記録は記憶のためにあるべきなのだ。
 スマートフォンの振動音がベッドのほうから聞こえてきている。はしばらくして振り返り、ベッドの上の、衣服の下を、おざなりに手で探った。震えるそれが、一人の名前を告げ知らせている。は驚くよりも先に、ついにきたか、というような張り詰めた切ない気持ちになった。呼吸をととのえ、親指でひと撫で。震えが止まる。彼のために何度したか分からないこの所作が、また新しい意味を持つ。

「も、もしもし」
『……おー、今何してる』

 勝己のくぐもった声が耳をゆうゆう覆うように届く。二人が話をするのはあのちぐはぐな言い合いをして以来だった。もう三週間近く前のことになる。この三週間、も、勝己も、悠長に構えていたわけじゃないし、変に気まずさを感じていたわけでもない。ただこの時間がくまなく必要だった。二人ともそれは分かっていた。

「えっ……と、荷造り、です」

 です、てお前。通話口の向こうで勝己の声が少しまるみを帯びたのが分かって、は耳に体温以上の熱が滲むのを感じた。緊張したのではなく、ただ、まぎれもない恋の反射として。

『つうか俺も荷造りしねえと』
「え、勝己も?」
『合宿のな。どこ連れてかれんだか知らねえけど、明後日から』
「あ、わたしも明後日からだ……」

 二人はお互いに目と目を合わせて向かい合っているような心持ちで、しばらく電話越しに押し黙った。合宿ってどれくらい行くの、とか、何するの、とか、行き先が分からないってどういうこと、とか聞きたいことは山ほどあるのに思考がもつれて言葉にならない。言葉にしてはいけない。もっと知りたくてたまらないことが、言葉のはざまに息をひそめていたから。

『やるんだな、映画』
「……うん、やるよ。やりたいから」

 はっきりと、声にする。声にすると、お腹の底からちからが湧いてくる。一ヵ月まるまる静岡を離れるということ。はたった一人でその決断をした。どうってことなかった。誰もがしていることを、ちゃんと自分のものにしてのけただけだ。やりたいことやって恥をかくなら、やらないよりずっとマシ。いつぞや勢いに任せて啖呵を切ったあの言葉に、はようやく自分の足で追いつくことができたのだ。
 あの日、勝己がまくしたてた言葉たちをじゅんぐり思いだしてみる。言い方は辛辣でも、理不尽にまくしたてられても、言い分だけ辿ればきっと彼はそんなに間違ってない。正しいかどうかということではなく、適確かどうかという意味で。勝己は最小限の言葉で、の弱さを抉りだした。

 レースのカーテンが半開きになった窓に、何か小さなものがぶつかったような音がして、はうつむきかけていた顔を上げた。それだけで、揺るぎない予感がした。急に存在をあらわにする鼓動を喉の奥に押しこめて、は窓辺にさっと近寄った。もどかしさを感じながらカーテンをはらい、鍵をあけ、窓枠に手をかける。二階のの部屋からは、玄関に面した通りがよく見晴らせた。今度こそしかと目が合って、二人は同時に手にしていたスマートフォンを耳からはずした。

「……こないだ、悪かった」

 蝉の鳴き声にかき消されることなく、勝己の声がじかに熱い空気を伝ってたちのぼり、の涙腺をほどくようにかすめた。てきかく。てきかくな男なのだ、彼は。穿き古しのクロップドパンツのポケットに片手を突っこみ、もう片方の手で髪をかきながら勝己は視線をはずした。俺が、この俺が、ここまでやってやってんだ、とでも言うような態度。だけどそれが、彼だった。の大好きな、爆豪勝己という男の本性だった。

「コンビニアイスで手をうってあげる」

 そんなに謝りたいのなら、存分に謝らせてあげようか。悪かった、という気持ちに飽きるほどひたらせてあげようか。いいよ、わたしも悪かったよ、なんて殊勝な言葉は今は秘め。勝己がふたたび顔を上げる。が笑いかけると、勝己は眉を歪めた。へんなかお。泣いてないのに、泣いているみたい。勝己のめずらしい表情を目にしかと焼きつけてから、は急いで階段を駆け降りた。



 散らかる部屋に転がっていた適当な帽子をかぶり、玄関でぼろぼろのフラットサンダルをつっかける。ちょっと商店街の本屋まで、というような気の抜けた格好で落ち合う暮れかけの今日が、おそらくこの夏、最初で最後の二人のデートになるだろう。立っているだけで汗が浮かんでくるような暑さのなかを、それでもどちらからともなく二人は手をつないで、近くのコンビニに入った。涼しい店内を、一直線にアイスの冷凍庫まで。勝己の罪滅ぼしのしるしなのだからと、なるべく高いアイスを要求してやろうと思って悩んでいたのに、けっきょくはさんざん迷ったあげくなじみのアイスキャンディーを手に取った。たった百円で果たす仲直り。にはその安っぽさが嬉しかった。

 アイスをかじりながらあてもなく住宅地の舗装路を歩いていく。途中、でたらめに走ったり飛んだりしながら近づいてくる数人の中学生たちとぶつかりそうになり、勝己はの腕をさりげなく引き寄せた。二人にとってその中学生たちが纏っていたなんのひねりもない夏服は懐かしいもので、はその後ろ姿をわざわざ身体ごと振り返って見送った。夕風が吹くと、わずかばかりの涼しさを感じる。あっという間に陽は落ちて、街灯もじきにつきはじめるだろう。

「うちのガッコだった」
「だな」
「文化祭の準備中だね。すれ違うとき、ペンキとガムテープのにおいがした……」

 そう呟くの声はもう、七色の思い出の海を遊泳するようにふわふわと浮いていた。勝己は黙って、住宅地のはずれの、公園の防護柵をひょいと脚を上げて跨ぐ。もアイスをひとくちひとくち丁寧に飲みこみながら、柵をよけて勝己に続いていく。暑さのせいか、時間のせいか、公園は無人だった。沈黙する遊具たちと、崩れかけの砂場の山。この公園にも、すっかり来なくなってしまった。ここは二人の帰り道には欠かせない、ちょっとした寄り道場所だったのだ。別々の家へ帰る前のささやかな悪あがき。寄ってこう、なんて言わずとも、例えば別れ際の恋人たちが駅の改札に留まっているのと同じで、と勝己は自然とこの公園のベンチに腰を降ろした。ちょうど、今のように。

「なつかしいなあ、クラス劇。勝己はもう忘れちゃったかもしれないけどさ」
「忘れてねっつの」

 たかだか二年前のこと忘れてたらアホだろ。そう言って勝己はアイスボックスの残りの砕氷をすべて喉に流しこみ、からになった容器をぐしゃりと片手で潰した。遠いようで近い、十四歳だった毎日のこと。それに、二人にとっては文化祭は特別ないわくつきの行事でもある。お留守になっていた右手を勝己にさらわれて、はいやおうにもあの放課後のことを思いだしてしまう。誰にも内緒で、物語を一歩はみだした。遊戯のようにキスをした。手の甲を親指がすべる、これはあのときと同じ手と手の重ね方だ。

「“あなたに会わないほうがよかった”」
「え?」
「って、主役のヤローが言う場面だったろ、ここ」
「よく覚えてるじゃんか……」
「すげー見てたからな、練習。あー腹立つ、って。何テメェがの手握ってんだよって」
「自分で配役しておいて?」
「勝手なんだよ男は」

 勝己の唇がよく分からないタイミングで降ってきて、は思わずまだ四分の一ほど残っていたアイスを砂利の上に落としてしまった。動揺しているみたいで、悔しい気持ちがくつくつと小さな気泡のように浮かんで、壊れる。きっと勝己も、少し喋りすぎたと思って動揺したのだ。恋をするとわがままになる、恥ずかしくなる、怒りっぽくなる、すぐ泣きたくなる。そこに男も女もない。

 思ったよりも深く息継ぎを遮られながら、は、ひょっとしたら勝己は少し、あの文化祭のことを後悔しているのではないかと考えた。もしあの舞台で勝己から思いがけず大役を貰いうけなければ、は今ごろ荷造りの作業になんて追われていないだろうし、彼はもっとずっと手もとに恋人のことを置いておけただろうから。それはたまに、自身でさえ思ってしまうことだ。安易なたらればの安寧をひとは好む。勝己の脳裏にもきっと、こんな後ろめたいもしもの話がよぎった日もあったはずだ。そうやって、少しずつ超えていくしかない。それができない二人じゃない。だってあれは、無二のきっかけだった。の夢の始まりという以上に、と勝己、二人の恋の。
 勝己はそれを認めないような、ちっさい男じゃない。

「気張ってこいよ、

 首を支えていた手のひらが頬に触れる。勝己の真剣なまなざしが真夏のアスファルトのようだ。熱の揺らぎ。まぼろしを映す、七月の蜃気楼。は、勝己の美しさに見惚れていた。うなずくことも、目くばせすることも忘れて、ただ足りない酸素を半開きの口から補いながら、勝己に焦点を合わせていることしかできなかった。

「どこまでも、行っちまえ。前だけ見てろ。迷うな。俺がすぐ追いこしてやるから」

 前髪の上から額を押しつけられ、押しつけられたかと思ったらもう、勝己のすべてが慌ただしく離れていった。やっぱり、嵐みたい。彼はの落としてしまったアイスキャンディーの棒切れを拾うと、潰したアイスボックスの容器と一緒にして数メートル先のゴミ箱に放り投げた。あっという間にさっさと立ち上がる。帰るぞ、とに手のひらを突きだして。

「……何、笑ってんだよ」
「ううん。だって、嬉しくて」

 そして、も立ち上がる。汗でべたついた手と手が触れあう。だけど、はなんだかそれだけじゃ我慢できなくて、自分から寄り添うように勝己の腕に腕を絡めた。

「追いこされて、置いてかれないように、せいぜいがんばるよ」

 それぞれの未知が詰まった遠いどこかで、ばらばらの長い夏を始める前に、たとえはかないひと時であっても、となりを歩くことができてよかった。安らかさと危うさが、交互に胸をいとしく揺する。青くさい二人の持て余した距離は、互いの射程は、真夏の氷のようにはたやすく溶けはしないけれど、それでも今は、割り切ることのできない二人のあわいを、恋しさにすりかえて笑うのだ。

 この手と手が離れれば、二人の短い夏が終わる。









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2016.7