two is the loneliest number:1

caution

中学2-3年あたりの番外編(本編2-3話の内容を前提として書いています)。前編は出久から見た二人のこと、後編は若干の性的描写が含まれます。




 ひとは噂話が好きだ。誰もが二人の話を知る、三人目になりたがる。

「そういや勝己、あの噂ってマジなん?」

 夢中で、がむしゃらにノートの罫線上を疾走していた手の動きが、まるで何かの条件反射のようにぴたりと止まる。正確にいま、この場でのありうべき危険を察知して。その男の名前が、その存在の気配が、いつも彼を過剰なまでに委縮させ、鈍らせてしまうのだ。緑谷出久は余計な音を立てないようにぎこちない動きでおそるおそる足もとを覗きこんだ。階をふたつ降った非常階段の踊り場に、数人のふらちな人影が淀んでいるように見える。暑さも忘れていた出久のこめかみに、つっと嫌な汗がひとすじ流れた。
 八月も半ばを過ぎ、十四歳の夏がひどく味気のない濃度でできあがろうとしている。友人たちと遊び倒すのでもない。家族旅行に出かけるのでもない。思い出のひとつも増えやしなかったが、ただ、書き溜めているノートの巻数だけはそろそろひとつ増えそうだ。出久のキャンパスノートには彼の「凄いと思ったヒーロー」の分析がびっちりと詰まっている。どんなときも、何をしていても、思いついたことはすぐに書きとめておきたくなって、文化祭のクラス劇の準備で駆り出されているこんな登校日にも、休憩の合間にひとり、くたくたのノートと睨めっこしているのだった。誰とも喋らず、隠れるように。それが彼の日常であり、彼の平穏だった。

「噂?」
「ほら、と付き合ってるっつー」
「あー、俺も聞いた。女子がよく騒いでっけど」

 幼いころから耳なじみのある声が三つと、あまり聞き慣れない女生徒の名前らしきものがひとつ。そして何より「付き合ってる」という言葉の、学校という小さな密室世界にとどろく、慎ましくもスキャンダラスな響きがにわかに彼の鼓膜を突く。出久は手にしていたシャープペンシルをノートに挟んで、ますます身を縮こまらせた。いつだって輪の中心にいるひとりの絶大な幼なじみ――爆豪勝己に対する、もはや一筋縄にほどくことなどとうてい叶わない羨望や、嫌悪や、執着や、恐怖に、己れをがっさい縛られているような心地で。

「別に付き合ってねえよ」
「あ、そうなん」

 勝己がぶっきらぼうにくだんの「噂」を否定すると、質問を投げた友人たちはやや期待はずれな、拍子抜けしたような口ぶりでそれに応じた。出久もまた、のぼりくる会話に耳をそばたてながら、どういうわけかほっとしている。だがそれも束の間のことだった。かすかに笑っているのか、勝己の声は誇らかに軽薄で、雑紙でつくった紙飛行機みたいになんの感慨もなく蒸し暑い空気に溶けていった。

「付き合ってねえけど、あれは俺の」

 勝己は、確かにそう宣言した。つまらない「噂」を払いのけ、「噂」よりももっと生々しいことをさらりと言ってのけてしまう。その「軽さ」が、それを軽く言い放てるということこそが、彼という人間の持ち合わせている得も言われぬ特権のようなものだった。彼の言葉に比べれば、付き合っているだの付き合っていないだの、なんと気ゆるい告発だろうか。
 あれは、俺の。……
 心臓がちりちりと痛むような、妙な質感が出久の胸に迫ってくる。そのシンプルな所有のしるしはいかにも勝己らしくもあったが、同時にそれは、彼がいつも撒き散らしているぞんざいな横暴や、当然だという態度で向けてくる蔑み、あざけり、あるいは全能感に満ちた傲慢とは、まったく相容れない頑丈な潔癖さに守られているように出久には感じられた。違和感。そのとき出久の胸にざらついていたのはそんな、未知へのある種の拒絶反応だった。

「わっ!」

 座っていた段差ににわかに振動が伝わってきて、出久は動揺のあまりシャープペンシルをノートの隙間から落としてしまった。腰を浮かせてそれを拾いあげたとき、夏の黒々とした影が彼の頭上に差しかかり、もう遅いのだと悟る。見上げればあの、幾度となく容赦なく押しつぶされてきた、重たく刺々しい鳶色の瞳とぶつかるのだ。何百、何千。出久はこの眼に屈してきた。

「……ンだ、デクかよ」

 驚いているというより、うんざりとしているように勝己は彼独特の呼び名を口にした。悪意をもって読み替えた、「木偶の棒」のデク。そのあだ名に二人の特殊な関係が刻みこまれている。例えば、たちどころに悪寒が全身をめぐり、自動的に怯えてしまうような、そういう。

「ごめっ、あの、違うんだ、たまたま、こっここでノート、じゃなくて、休んでただけでっ、だから、聞いてな」
「は?」

 必死の弁明もたったの一音で無に帰する。勝己の背後でだんまりの二人は、呆れているような憐れんでいるような視線を出久に向けるだけで、けっして勝己には逆らわない。彼は従順なとりまきを振り返り、近場のコンビニで買ってきたのだろう炭酸飲料の缶底を、うつむく出久の脳天に押しつけながらせせら笑った。

「何言ってっかわかんねんだけど、こいつ」

 同調する乾いた笑い声がむなしく散ってゆく。いつものことだが、出久だって勝己の言動に対して何も何も、言いかえせない。そのまま足音が通り過ぎ、背中で非常口の扉が閉まる音がするまで、出久はただ肩をすくませてその場に座りこんでいるしかできなかった。
 悔しさとふがいなさを喉の奥にやりこめながら、出久は、手にしていたノートの数ページ目をひらいた。そこには或る日の合同「個性」授業の日に見た、勝己のおそるべき抜群の立ち回りについて、事細かに綴ってあった。恵まれた華やかな「個性」、身体を操る才能、明晰な判断力。どれをとっても勝己は図抜けている。
 ――このページを、いっそ清々しく、破り捨てられる自分であったら。……
 何を思ったか、出久は字で埋め尽くされたそのページのわずかな空欄に、今しがた聞き及んだひとりの女生徒の名前を小さく書きしるしてみた。が、そんな戯れは数秒ともたない。すぐに我に返って、彼は真新しいその文字列を荒っぽく塗りつぶした。あっという間に、消してしまった。こんな惨めな気持ちになりながら、それでも、癖のように彼にまつわることを集めているなんて。

 夏休み明けの文化祭が過ぎて、出久はようやく、という女生徒の姿かたちを知った。勝己のクラスが二年生の出し物のなかで企画賞をとり、後日の朝礼で表彰されたとき、体育館の壇上にあがったひとりが当の彼女だったのだ。彼女はクラス劇のヒロイン役をつとめた美しい少女だった。主役の男子生徒とともに彼女が壇上で一礼したとき、出久は二列向こうでけだるく整列していた勝己をふと盗み見た。勝己は、けっして彼女に目を向けず、つまらなそうに視線を足もとに落としているばかりだった。「あれは、俺の」。感情の読みとれない幼なじみの横顔をうかがいながら、あの日の彼の言葉を、出久は何度も胸に染みこませるのだった。



 中学三年生の春は、出久にとって人生でもっともめまぐるしく、激しく、衝撃的で、そして何より、福音のような季節になった。自分自身の内側に絶えず荒々しい風が吹き荒れていて、それは出久を高揚させもしたし、混乱させもした。とにかく自分のことで手一杯の日々が続いていて、以前のようにノートをとる余裕も、他人に目を配っている余裕も、何もなかった。だからあの日、教室で起こった大事件に遭遇するまで、幼なじみのなかに渦巻き続けていた苛立ちのことなど想像することすらできなかった。
 ひと筋の悲鳴とともに、うるさかった昼休みの教室が黙りこむ。その小さな爆炎に出久はよくよく見覚えがあった。幼いころからあの華々しい「個性」に誰よりも憧れ、そして誰よりもその能力を畏れてきたのは、ほかならぬ自分だったのだから。
 勝己は何も言わず、の細い腕を引いて猛烈な勢いで教室を飛び出していった。は左頬を押さえていた。勝己の机の上には、爆破されてぼろぼろになった雑誌の残骸が捨て置かれている。勝己はいつもその強力な「個性」をまるでひけらかすように軽率に扱うが、それでも、こんな惨事はもちろん初めてのことだった。

「……爆豪こえー」
「てかヤバくね? センセー呼ぶか」
「ありゃ別れ話だな」
「うわあ、修羅場じゃん」

 出久の近くに座っていたクラスメイトたちがひそひそと話している。担任教師を呼んできたらどうなるのだろう。多くの生徒が目撃者となっているし、校内で「個性」の使用は禁止されている。何より、彼が今ここでふるったのは間違いなく暴力だった。色々な可能性が頭にわっと浮かんでくるなか、出久は弾かれたように立ち上がった。幼なじみの苛立ちに対する罪悪感か、それともただのお節介なのか、彼はいつも考えをまとめるよりも先に足を動かしてしまうのだった。

「先生いいよ! ぼ、僕ちょっと見てくる……」
「え……あ、そー?」

 出久が大きな声でそう叫ぶと、好き勝手に話していたクラスメイトたちはやや圧倒されたような様子でぎこちなくうなずいた。うなずかせたと言ってもいい。出久は教室を飛び出し、なんの心当たりもなく、ただ走った。非常階段の踊り場、屋上、空き教室、そして保健室。どこにも二人は居なかったし、見つけたところでどうしたいのか自分でも分からなかった。分からないまま、それでも必死に捜した。そして無慈悲に予鈴が鳴り、何もできないまま、一階の廊下を昇降口のほうへとぼとぼと歩いていたときだ。下駄箱を横切ってすっと通り過ぎていく勝己を、勝己とを、出久が見つけたのは。

「あ、わ……か、っ、かっちゃん!」

 勝己だけが出久を「デク」と呼ぶように、出久だけが勝己のことを今もなお「かっちゃん」と呼んでいる。勝己が足を止め、そのとなりでもまた立ち止まる。彼女はもう頬を押さえていなかったが、まだうっすらと左頬が腫れているように見えた。

「う……えと、捜してて、大丈夫だったかな、って、思ってさっき、それでその、心配で……」
「勝己の、お友だち?」

 しどろもどろになっている出久に応えたのは勝己ではなく、一度も会話をしたことのないのほうだった(もっとも、出久と勝己も付き合いこそ長いが会話らしい会話をしたことがあるのかと言えばあやしい)。彼女はものめずらしそうに戸惑う出久を見、そしてやや目を伏せて黙ったままでいる勝己をのぞきこんだ。彼女の片頬の赤みが、出久には昔むかしの、幼い自分の悲劇と重なって映る。自分の左頬にも、が受けたものと同じ痛みの記憶がよみがえってくるような気がして、彼は急に切ない気持ちになった。痛々しい。己れの過去も、彼女も、きっと、目の前の二人も。

「あの、だ」

 一歩近づき、大丈夫ですか、と言おうとした。が、それは遮られた。勝己がの腕をひっぱって、自分のうしろに匿うように引き下がらせたのだ。少しだけよろめいて、不思議そうに小首を傾げているをよそに、勝己は出久を置き去りにしてまた大股で歩き出した。振り向きざまに、おそらくあのとき彼の精一杯で、二人の外部にあるものすべて突き放した言葉を吐き捨てながら。

「お前には関係ない」

 それからというもの、勝己とは、「別れ話」だの「修羅場」だの言っていた大方のクラスメイトの予想を裏切って、今まで以上に二人一緒に過ごすようになった。きっと誰の目にもあからさまな変化だったに違いない。図書室のテーブルで向かいあっていても、肩を並べて下校しているだけでも、二人はハッとするほど絵になるカップルで、こんな平凡な中学では彼らが全校生徒の憧れの的になってゆくのもまったく自然ななりゆきだった。
 昼休みの教室の片隅で、二人はよく、窓の手すりをベンチがわりにして話しこんでいた。いや、じっさい言葉を交わすことが彼らにとってどれほど価値のあるいとなみだったのか。そよ風にたなびくカーテンの内側で、二人はときおり、手をつないでいるように見えた。淡く結ばれるふたつの影。彼らの関係には「関係ない」誰もかれもを触発してしまうような、そんな不敵な引力が宿っていた。
 あの日、彼は彼の「個性」をつかって、彼女に一体どんな刻印をしたのだろう。してしまったのだろうと、出久はときどき、考える。あてどなく、あの日、二人を捜して校内じゅうを走り回ったように。
 他人の噂話なんて、とことんあてにならないものだ。



 真夏の陽ざしを避けて逢魔が時に家を出る。中学最後の夏休み、出久は自宅のある団地から約7キロ半離れた海浜公園までの走りこみをひそかな日課にしていた。海水浴のシーズンだというのに誰も寄りつかない、不法投棄の山に埋もれた海岸だったが、それでも最近はほんの少しずつほんらいの砂浜のおもてが覗きはじめた。体力づくりを兼ねた、出久の無償の奉仕活動によって。
 団地から公道に出るまで、距離を稼ぎたくてあえて遠回りして住宅地を抜けていく。盆休みのせいか、のどかな道路にはひとの気配はなく、一帯は時が止まったような静けさに包まれていた。いつもの道、いつもの風景。幼いころよく遊んだ公園を過ぎ、見慣れた煉瓦塀に差しかかったとき、出久は思わず転んでしまうほどの急ブレーキを足に掛けた。青々と針のような葉をつけた低木の植えこみの向こう、芝生の上で、見覚えあるふたつの影がつながりあっているのが見えたのだ。
 それは紛れもなく、勝己との絡みあう姿だった。
 出久は、動転して、とっさに近くの植えこみのあいだに身を隠しながら、あの昼休みの教室での二人の睦まじい様子を思いだしていた。寄せては返すカーテンの奥で彼らがしていたこと。出久はいま、そのほんとうの秘めごとを目の当たりにしているのだという気がした。

 呼吸を整えている間もなく、すきまのような視界を切り裂くようにネイビーブルーのスカートの裾がひろがる。黄昏の幕を引く、がまとう宵闇の色。彼女の細い腰に添えられた勝己の手のひらは、不遜な彼の手らしからぬ神妙な確かさに満ちていた。出久の胸にいまいちど、勝己の発した過日の言葉が浮かびあがる。一年越しに、あの一言の奇妙な質感にけりをつけられたような心地がして。あれはけっして、占有の名乗りなんかではなかった。もし彼女が勝己の所有物ならば、彼はもっとぞんざいに、もっと堂々と彼女に触れているはずなのだから。

「……息できなかった」

 が、不平を洩らすような言い方でそう訴える。ミュールサンダルのヒールのせいか、二人の背の高さはいつもよりだいぶ近づいて、が顔を上げると自然と二人のひたいとひたいが重なりあった。勝己の手のひらがの頬を撫で、そのまま、少し乱れた髪を耳にかけなおす。風が強い。

「ヘタクソ」
「ねー、それがカノジョに言うこと?」
「俺に合わせとけ」
「やだ。やさしいのがいい。バイバイのちゅーして」

 出久にしてみれば凶悪な、ものすごい舌打ちが聞こえてきたが、どうやら折れたのは勝己のほうらしかった。あの得手勝手な男に対してこんな気の抜けたわがままを言うのはきっとくらいのものだ。
 しばらくの沈黙のあと、蜜にたっぷりくぐらせたような甘い声音で「じゃあ、またね」と彼女は言い残し、勝己の家をあとにした。サンダルの足音が遠ざかっていく。あたりはまた静けさを取り戻し、出久はもうひとつの足音が去るのを待っていた。けれども、じっと、彼はそこを動かない。そしてやにわに鋭く視線を動かした。

「おい、クソナード」

 物陰に隠れ、姿は見えていないはずだろうに、勝己はそこにとどまっている気配の主を的確に見抜いた。みぞおちのあたりをねじり潰されるような苦しさ。恐怖のようでもあるし、焦燥のようでもある。出久は植えこみを離れて立ち上がろうとしたが、足先が痺れ、情けないことに芝生の上に尻もちをついてしまった。

「ごめ、あの、ち、違うんだ、かっちゃん、これはその、偶然通りかかって……」

 勝己は門扉の前から一歩も動いていなかったが、夏の夕暮れの停滞、熱風、汗の滲むTシャツの具合の悪さ、伸びる影、それらここにあるどうしようもないものたちがすべて、出久を追い詰めた。口がうまく回らない。偶然。そんな自分の言葉が、着飾った嘘に思えたのだ。彼らを見つけてしまったのは、ほんとうに「偶然」のことだったのに。
 勝己が目を伏せ笑う。自分自身さえも嘲っているような閉じた笑い方だった。

「いつもそうだよなぁテメェは、こそこそしやがって……きもちわりぃ」
「ちが、違うよ、そんなつもりじゃ……」
「お前のつもりなんざ聞いてねえ!」

 思いがけないほど張りつめた剣幕で怒鳴られ、もう、声が出なかった。それは怒気というよりもはや殺気だった。はあ、と勝己が震える息を吐く。木々を鳴らす風の音がやんだ。

「見てんじゃねえよ、死ね」

 じゃばらの門扉を閉めもせず勝己は踵を返した。玄関ドアを荒々しく閉めて、彼の背中が消えてく。それすら、そんなことすら目が離せなかった。彼の一挙手一投足に、結局は出久の意思が向いていた。彼を追いたい。彼を見失わないでいたい。日々のなかで、彼との遭遇や衝突を極力避けているはずなのに、それでもなぜか出久は気づくと彼の道の上に居る。偶然とは言い切れないちからに導かれて。
 目に見えるものも耳に入るものも、風に揺れる木々のようなものだ。
 あんなふうに頬を叩いて、傷つけて、壊れそうで、それでも彼らは終わらずに、むしろあの傷を鎖にして、今まで以上に求めあっているように見える。出久にはそのからくりが分からない。誰にも分からない。三人目の、誰にだって。
 二人という単位にはいつも、善悪では量れない、ままならないものが巣食っている。









←backtopnext→

2017.11