two is the loneliest number:2
プールサイドの樹脂製の床にフェンスの網目がくっきり影を落としている。はそれを足の甲に写しとりながら、平均台の上にいるみたいにぎこちなく歩いた。まっすぐ伸びている格子状の濃淡が、素足の起伏に合わせてぐにゃりと曲がる。そんな、なんてことのない暇つぶしの綱渡りにはもちろんすぐに飽きて、よろめいたついでにはフェンスに背中を預けた。ひと夏を溜めこんだ金属が温かい。
夏休みが明けて最初の体育は、今年最後の、あるいは中学最後のプールの授業だった。クラスメイトたちがさわやかな声を弾ませながら水と戯れているそばで、は白い身頃のセーラー服に包まれたままでいる。水着を忘れてしまったことにして逃れたけど、スカートを脱げないわけは別にあった。この紺色のヴェールは、まったく、十五歳の少女にとって色んなものを隠してくれる。
「……! おーい、」
背後から潜めた声で名前を呼ばれ、はなにごとかと振り返った。女生徒たちがプールに浸かっているあいだ、男子生徒たちはグラウンドでボールを蹴っている。そこには、砂まみれのサッカーボールを脇に抱えたクラスメイトがひとり、を見上げるようにして立っていた。
「あー、今ちょっといい?」
「え、うん」
「文化祭の日さ、シフト終わったら屋上来てほしいんだけど」
首を傾げるしかないような唐突な誘いだった。どうしてと尋ねてみてもあいまいな返事ではぐらかされてしまう。は視線をあちこちさまよわせて、それから、体育教師の目を盗むようにその場にしゃがみこんだ。太ももから落ちそうになるスカートの裾を手で押さえながら。
「でもわたし、友だちと回る約束してて、」
「少しでいいんだ。五分とかそんな。だめかな」
最後だし……と彼は口ごもる。ダメ押しのように。はそこで、この男子生徒と自分は三年間ずっと一緒のクラスメイトだったのだ、ということに思い至った。は友人と呼べるような異性を持っていないから、そんな偶然でもそれなりの縁だ。水着を忘れたなんていうその場をしのぎの嘘のような「でも」は、もうそれ以上、には思いつかなかった。
「……じゃあ、うん」
耳障りな集合のホイッスルが鳴り響いて、戸惑いを含んだ小さな声はきっと掻き消された。頷くを見上げて、彼がようやく顔をほころばせる。うらはらに、はお腹の底に張り詰めたものを感じはじめた。
「ありがと。俺、待ってるから」
彼はそう言うとグラウンドのほうへ駆け戻っていった。即席のサッカーコートのなかでは試合が行われているみたいで、クラスメイトたちがボールに群がったり、ほうぼう散らばったり、不規則にうごめいている。となりのクラスとの合同授業のはずであったから、そのなかにはもしかすると……は、急におそろしくなって視線を遠くへ投げるのをやめた。
その日の放課後、は数人の友人たちとドーナツ・ショップに居た。文化祭の日に一緒に行動しようと約束していた彼女たちに一応のことわりを入れておこうと思ったのだが、この手の話が「一応」なんていう生易しい仕方で許されるはずもないのだ。の報告はドーナツそっちのけで盛大に祭り上げられた。
「えー……それ絶対、告る気じゃないの」
そういうことだ。それぐらいのことは誰でも勘づく。だけど、自分からそういうたぐいの当て推量を口にすることはには憚られた。彼女もたいがい、ずるいのだ。自分で自分を掘り当てず、友人たちの推理に本心を託しているという点で。
「無謀すぎ。相手、爆豪だよ?」
「、はっきり断ればよかったのに」
「浮気だ、浮気」
「……だって、断るとか、そんなの分かんないしさ」
には今まで一度も告白をされた経験などなかった。告白をしたこともなかった。だけど彼女にはもうすぐ付き合って一年になる恋人が居る。爆豪勝己と言う名の世にも気難しくて神経質で繊細な男だ。それこそ去年の文化祭の日、あの日だ。漠然と彼に向かっていた淡い好意が、その無責任な一方通行のはずだったものが、すっと自然に環をつくって二人を飲みこんでしまった。言葉はなかった。むしろあるべき言葉を奪われて、は勝己と始まったのだ。
「そういえば、今日よかったの。爆豪くん置いてきて」
「……うーん、なんか忙しそうだし。しばらく放っておこうかなって」
「へー、大変だね。会長様は」
大変なものか。こんな平凡な中学校の生徒会にそうそう仕事が溜まるわけもない。彼はただ内申書の足しにするために、それから、自分の自由にできる個室を校舎内に確保するために、ほとんどフリーパスで通過できる選挙に立候補したにすぎないのだ。そういう抜け目のないところというか、こざかしいところというか、どうなんだと思いつつも、自分の欲しいものめがけて猛進する彼をまばゆく感じることのほうが、悔しいけれどずっと多い。
はスカートのプリーツを整えるふりをして、テーブルの下でふとももをさすった。一週間前、勝己がじかにそうしていたように。
夏の終わりから、ほんの少し二人は気まずいままだ。
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勝己が手のひらを裏返し、わざわざ爪の先で軽く内ももをなぞっているので、ははじめ、彼は夏の終わりの風物詩にでも気をとられているのだと思った。熱にたゆたい続けてぼやけたまなこを、なんとか恥ずかしさをこらえてうつむけてゆく。勝己の膝の上で、二人、はっきりとつながっている。身体でそれを覚えるよりも、脳裏にそれを馴染ませるとき、はどうにも泣きたくなるのだった。
「……これ、俺だよな」
勝己の渋い声が胸を湿らす。ようやくは、勝己が執拗に撫でているものの正体に気づいた。それはうっすら線を引く水着の日焼け跡なんかではなくて、いつぞや彼が落としていった焦げつく手形のほうだった。だいぶ薄くはなったものの、今も、指のあとがてんてんと滲んでいる。もちろん故意のものではないが、どうやら気持ちが昂っているとき、極度にこの行為に集中しているとき、彼の「個性」は大なり小なり暴発してしまうらしい。知らないあいだにつくってしまう痣みたいに、痛くはないが、数日経ってから腫れが目立ちはじめ、それなりに残る。
夏休みがあと二日で終わってしまう、少しさみしい匂いのする土曜日の午後だった。彼らがこういうことをするとき、場所は決まって勝己の部屋の、ベッドの上だ。例外は今のところない。勝己の両親は共働きで、夜遅くまで市内中央のデザイン事務所に詰めていることが多い。だからこの広い家は日中たいていからっぽだった。かくれんぼにはうってつけで、秘密を仕舞いこむにはこれ以上なく、むしろ二人の手には余るほどに。
「え、あ」
がなにかしら応えようとした矢先、勝己の両腕が彼女の背中にまわった。自分の手首を握って輪をつくり、薄い肉つきの腰を自身の腹部に押しつけるように、きつくを拘束する。こうするとむやみにを手のひらで押さえつけなくて済むから、彼が好んでする抱き方のひとつだった。ところがには不満がつのる。だって、そうだろう。互いに触れたくて、そうしたくてたまらないからこんな不格好なことをしているのに、「触りたくないから」なんていう臆病を認めてしまったら、それはフェアじゃない。
自分の腰を縛りあげ、前後にゆすろうとしている勝己の腕に、は手をかけた。筋肉質で重々しく、余分な肉をもたない太い腕。のちからではどうにもならないものが、ある瞬間、不意にほだされることがある。幸福な浸透圧。流れでていく、溶けこんでいく、その御しがたさほど心地の良いものはない。それなのに。
「勝己、いい、よ……さわって」
「……お前がよくても、俺は嫌なんだよ」
喉仏を噛むように勝己が唸る。切ない、余裕のない響きが子宮に染みわたる。そんな堂々としたルール違反があるものか。に言わせれば、勝己がこわいのは、こわがっているのは、恋人を傷つけてしまうということだけではない。これは、そんな優しいためらいだけで片づけられる恐怖ではないのだ。彼はきっと、向き合いたくないんだろう。自分のもっとも忠実で、もっとも優秀なしもべが、或るとき知らず知らずのうちに己れに牙を剥くのだという、不都合な真実と。勝己は、どうにもならないということを、畏れている。なんとも生まれながらの支配者らしい理屈だ。はまだ、勝己のこのがんじがらめの窮屈な武装を、うまく解いてあげられない。
休み明けの水泳の授業、見学しろとに迫ったのは勝己だ。高圧的で、にべもなく、に異論を差し挟ませないというよりも、はなから異論などありえないだろうという態度だった。知らなければ知れないような傷跡に、彼は過剰な負荷をかけている。それを思うと、のなかには、彼に頬を叩かれた日のことがいやおうなくよぎるのだった。
――あのとき、もっと彼を責めてあげたらよかったのだろうか。そんなこと、できるはずがない。
堂々巡りを繰り返して、二人まだ、あの春の日にそれぞれの未練を残している。
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約束の文化祭当日がやってきた。九月も半ばを過ぎたというのにまだまだ二十五度を超える夏日が続いていて、クラスメイトはみな汗だくになりながら朝から当番制で屋台をきりもりしていた。二年生のころはクラスでひとつの劇をつくったが、三年生は食品を扱う出し物をすることになっている。も一時間ほど前から屋台の奥にひっこんで、菜箸で延々とお好み焼きの粉を溶いていた。祭りの熱気が籠もり、型落ちの扇風機などでは気休めにもならない。
昼どきを過ぎ、客の流れがひと段落ついた。ひたいの汗をぬぐって、はエプロンのポケットに入れていたスマートフォンを手に取った。五分前にメッセージが一件届いている。めずらしいことに差出人は勝己だった。
〈見たら生徒会室来い〉
とても恋人に送るものとは思えない命令口調の、どうしたもこうしたもないシンプルな一行。それはけっして屋上でを待ち受けている例の呼びだしのように、こそばゆい予感を漂わせるものではなかった。シフトの時間を知っていて送ってきているのなら周到なことだ。数分後、入れ替わりで当番に入るクラスメイトがやって来て、はようやく一時間半の蒸し暑さから解放された。エプロンの紐をほどき、仕方なく足早に昇降口へと向かう。屋上ではなく、生徒会室で己れを待ち受けているものを確かめるために。
校舎最上階に位置している生徒会室は、注意していないと通りすぎてしまうようなひっそりとした小部屋で、も一度もそこに足を踏み入れたことがない。生徒たちの波をかきわけ、廊下に落ちるチラシや輪飾りに足をとられながら、進む。祭りのさなかだというのに生徒会室のまわりはいつも通りで、雑然と外に積まれた段ボールもひとを寄せつけないためのバリケードのように、部外者のには感じられた。
ノックを何度かしたが反応はなかった。ドアノブに手をかけると、かたく、取っ手を下ろすことはできない。
(鍵かかってる、し)
ひとを呼びだしておいて、とがあきれて肩を落としたそのとき、背後からなんとも無遠慮なちからでセーラー服の身頃をつままれては小さく息を詰まらせた。背すじが震える。不躾な指から逃れるように勢いよく振り返ったら、胸を締めつけていた圧迫感がぷつんと途絶えて、はこの暑いのに全身に悪寒が走るのを感じた。
「透けとるわドアホ」
の背後には上履きのつま先どうしがこすれ合う近さで勝己が立っていた。一方的に気色ばんでいるような眼をしてを見下ろしている。勝己は制服のポケットから鍵の束をとりだすと、を挟んでドアの鍵穴にそのなかの一本を差しこんだ。今しがたの自分の乱暴のせいで、彼女がみるみる頬を赤くして、胸もとを押さえていることにも構わずに。
「ちょ……っと、はずれちゃったじゃん」
「あ? 直してやろーか」
「自分でやる! ……一分待ってて」
は勝己の腕を押しのけると、今まさにのぼってきた階段を降りて踊り場の女子トイレに駆けこんだ。金具のはずれてしまった下着を素早く直し、鏡の前で自分の背中を確認してみる。薄暗くて分かりにくいが、汗をかいたのが悪かったのか、たしかに勝己が言うように下着の線がうっすら浮いているようだった。恥ずかしいというよりも、ばかばかしくって、気が抜けてしまう。
「着てろ」
生徒会室に戻ってきたを見やると、勝己はロッカーから麻のカーディガンを取りだして彼女に向かって放り投げた。しぶしぶそれに袖を通しながら、は初めて足を踏み入れる狭い部屋を見渡してみる。教室の半分ぐらいの小さな部屋に、本棚とロッカー、何も書き込まれていないホワイトボード、会議用の長机に、いくつかのパイプ椅子。そのひとつに、勝己は土足のまま右ひざを持ち上げて座っていた。どうしようか迷い、は彼の向かいではなく、となりの椅子に腰をおろした。ずっと騒がしい場所に居たからだろうか、この部屋の静けさがどうにもしっくりこない。否、彼の静けさが。
「生徒会のほかのひといないの」
「走り回ってんだろ、校内中」
「ふーん……会長様は暇そうだね」
「俺が雑用なんざやってられっか」
そんなやりとりを二三交わす。自分から呼びだしておいて、勝己はそのわけを言わない。もどうしたの、とその一言を口にできない。要らぬためらいが長引くほど、話の舵を切るのは困難になってゆく。
夏の終わりのできごとから、あのベッドの上から、二人は何も変わっていない。少なくとも周りにはそう映っているだろうし、も勝己もべつに、大喧嘩をしたとは思っていなかった。実際そうだろう。それなのに、ずいぶんと久しぶりに勝己とまともに顔を合わせ、二人きりになっているような気がして、奇妙な緊張がしだいにをむしばんでいた。会話の間さえも、取り返しのつかない沈黙のようでおそろしい。
生徒会室には壁掛けの時計がひとつあったが秒針が動いておらず、指し示している時間もでたらめだった。それだけでもこの部屋が普段からあまり活用されていないことが分かる。はスカートの上からポケットのスマートフォンを撫でた。今、何時か知りたかった。先約を優先しなかったうしろめたさが、の胸をいたぶる。
「勝己、わたし予定が、」
「何が気に食わねえんだよ」
勇気をしぼって切りだした言葉はすぐ、勝己の這うような低い声に遮られた。目を合わせようとしない彼から多くを汲みとることは難しい。いつもより暗がりを孕んでいる勝己の声に、ただ、は内心うろたえた。突然のことであったから。
「……え、何って」
「避けてんだろが、ずっと。分かりやすいんだよお前は」
立てた右ひざに肘をあずけて、勝己は髪をかきあげた。あきれているようにも見えるし、ようやっとをここに呼びだしたわけを吐きだして、苛立ちがおもてに溢れでてきたようにも見える。「分かりやすい」と言いながら、彼女の本心を分かりかね、二人のあいだのささいな変化を鋭敏に感じとってはいるものの、その本性をつかみきれない。勝己の仕草はそんなもどかしさをに伝えた。あからさまに態度にだした覚えなどないのに、それは、その小さな疵は、勝己には耐えがたいことだったのだ。はその事実だけで胸が張り裂けそうだった。
「……避けてなんか、ないけど、べつに」
言葉はごまかせても、声の震えはごまかせない。焦りを隠すように口もとを握った手で覆うと、袖口から勝己の匂いがしてすぐに逆効果だと悟った。即効性の催涙剤のようだ。勝己から顔をそむけて、はうつむいた。動揺を追いだしてしまいたいと願い、声を殺して長く息を吐く。余った袖口の下で、は膝に乗せた両のこぶしにぐっとちからを込めた。
「勝己が構ってくれないから、ちょっと拗ねたのかも」
冗談めかしてそう言ったつもりが、これもまた、逆効果だった。ひざを椅子から下ろした勝己が身を乗りだし、温かな気配が近づいて、はますます顔を上げられなくなる。それをむりやり、もたげさせられた。まるで熱をはかるみたいに、勝己の手のひらが、ぐっとのひたいを押し上げる。ずっとそっぽを向いていたのは彼のほうだったのに、今や、勝己は一心にの瞳を追いこんでいた。紛れもなく水をこぼしている、の堪え性のないふたつのまなこを。
「それも、拗ねてんのか。」
勝己の手のひらが、久しぶりにじかにの肌に触れている。涙を溜めた瞳で、は勝己のことを弱々しく睨んだ。首を横に振ってふたたび顔をそむけようとしたところを、強引に顎をとらえられ、ひらいた口を塞がれる。勝己の両手がの頭を、頬を、包みこむようにする。計算ずくなのか、本能的な才能なのか、培ってきた経験か、勝己はのあやし方をよく心得ていた。ほんらい言葉を交わさないといけないところを、行為の越権で片づけてしまうような拙いところはあるにしても。
そのまま言葉を失くして没頭していると、おもしろいもので五感がすみずみ冴えわたってきて、はこの静かな部屋にも祭りの喧騒がさざ波のように打ち寄せているのだということに気がついた。細胞が騒いでいるみたいに、今日は校内中が浮ついているみたい。そして二人は今、誰もさわれない最果てにいる。そんな贅沢な気持ちが湧いてくる。賢くなった触覚器官を、は、勝己のぶあつくて熱っぽい手のひらに集中させた。頬。耳。首。背中をすべって、器用な仕方での薄いところを縦断してゆく。息継ぎを促されたとき、それはどういうわけかセーラー服の下に潜っていた。油断も隙もなく。
「……あ」
「あ?」
「だめ、いま直してきたばっかり」
ふたたび金具に触れそうになっていた勝己の指がぴくりと止まる。に腕を押し返され、勝己はあどけなくも、待てをくらった犬みたいなふてた顔をした。思わず笑ってしまうと、頬骨のあたりがかすかに突っ張る。流した涙がもう乾いてしまったのだ。
「構えっつったのテメェだろ……」
「そーゆー意味じゃないもん。せっかち。それにわたし、約束あるからもう行かなきゃ」
またね、とはいたずらっぽく声を響かせて勝己にささやいた。またね。また、ベッドの上で。勝己は何も応えはしなかったけれど、二人はこのぐらいでちょうど「元通り」なのだ。一歩進んだわけでも一段のぼったわけでもないけれど、今はそれで充分だった。
立ち上がり、スカートの裾を払って皺を伸ばす。もう何時になっているのか、まだ彼は待ってくれているのか、彼をすでに傷つけてしまっているのではないか。あれこれ浮かぶ不安を仕舞いこみながら、は生徒会室のドアノブに手をかけた。
「、お前は俺のだ」
ドアを開けたそのとき、を見送るようにそんな一言が彼女の背中に触れる。振り返る。勝己は長机に肘をつき、窓の向こうに視線をはぐらかしていた。もしかして彼は、これから果たしにゆく「約束」のことを知っていたのではないだろうか。そんな気づきがのふところをよぎる。人差し指を立ててひとりに話せば、どこまでもどこまでも際限なく流れてゆく。内緒話なんて、しょせんそんなものだ。
――嘘つき。
そう、言いかえしてしまいそうになって、はぐっとこらえた。「俺の」だと言うのなら、その手で、おそれずにちゃんとつかまえていてくれたらいいのに。嫌だなんて言って拒まないで、好きなようにわたしを扱えばいいのに……。矛盾している、彼の言動も、自分の欲望も。だって勝己のおもちゃになるつもりなどないのだから。
どうしたら彼の一生ものになれるだろう。
漠然と大それた愛のかたちを、彼女はまだ直視できない。